『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』ギー・ドゥボールの探求の終着駅

われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを(1981)
In girum imus nocte et consumimur igni

監督:ギー・ドゥボール

評価:90点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

最近、いろんな映画監督のオススメ映画をまとめているのだが、フランスの哲学者にして監督のギー・ドゥボールの作品を挙げている人をチラホラ見かける。折角なので、『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』を再見した。原題がラテン語の回文である本作はカイエ・デュ・シネマのベストに選出された作品で、彼の遺作でもある。前に観た時はピンとこなかったのだが、今回は結構楽しめた。

『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』あらすじ

「人はひとつの時代を、ドガーナの岬を通るように、つまり、かなりの速度で通り過ぎる。岬は近づいてきているのに、初めはその姿が見えない。次に、その場所まで来ると、それが突然目に入り、それはそのようにして建てられていたのであり、別な方法で建てられていたのではなかったと否応なく認めざるを得ない。だが、その時にはすでに、我々はその岬を回りきってしまっていて、それを後にして、未知の海を進んでいる」(ドゥボール)。

 1972年から77年まで滞在したイタリアを政治活動のために国外追放されたドゥボールが、’50年代以降の自らの活動とその姿勢を省察する「自伝」的な作品。ラテン語の原題は、回文になっている。個人の生を忘却の闇へ消し去ろうとする制度的な歴史に対して抵抗する、ドゥボールの声と直接に生きられた青春。これまでの作品と同様に多くの転用を用いているが、ヴェネツィアの運河をとらえたパン・ショットやセーヌ川の航空写真、李白、ヘラクレイトス、オマル・ハイヤームのテクストに顕著なように、「水」、「流れ」、「循環」といった主題が軸となり、映画として抒情的な側面を生みだしている。ドゥボールは、’80年代に映画『スペインについて』を構想し、途中までシナリオを執筆する。しかし、ルボヴィッシの暗殺によって映画製作を断念したため、本作が最後の映画作品となった。

※山形国際ドキュメンタリー映画祭より画像引用

ギー・ドゥボールの探求の終着駅

ギー・ドゥボールといえば「スペクタクルの社会」にて、一般的なエンターテイメントだけでなく社会現象や政治までもがスペクタクルとして消費され、我々はそれに取り込まれてしまうこと批判した。彼の作る映画は視覚メディアとしての映画を否定するように、フッテージを並べたり、『サドのための絶叫』では白画面と黒画面だけで映画を騙ったりしている。

本作はその集大成であり、ブルジョワジーの生活写真や映像を並べながら農奴に近い労働者像をあぶりだしていく。貯蓄のできない労働者は、得た金を消費するしかなく、しまいにはクレジット(=信頼)をも食いつぶしていく状況について辛辣に語っているのだ。

中盤以降はオーソン・ウェルズ『アーカディン』などの映画のフッテージを用いながら物語、その中で中央部分にマスクをし、映画的運動をいじわるに否定していく。ゴダールと比べると素材の味をできるだけそのままにしながら冷たく映像論を語る。その語り口に痺れたのであった。