オッペンハイマー(2023)
Oppenheimer
監督:クリストファー・ノーラン
出演:キリアン・マーフィ、エミリー・ブラント、ロバート・ダウニー・Jr、オールデン・エアエンライク、フローレンス・ピュー、ゲイリー・オールドマンetc
評価:90点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
昨年から物議を醸しつつ、なんだかんだでアカデミー賞作品賞他7部門での受賞を果たし、ビターズ・エンド配給で日本公開が決まった『オッペンハイマー』。上映時間が3時間あること、そして毎回SNSが荒れる悪名高きクリストファー・ノーラン作品だけあってすっかり観るモチベーションを失っていた。しかし、映画仲間と花見をすることとなったので急遽、公開日2日目に観にいった。これが驚いた。クリストファー・ノーラン最高傑作なのではと思うほどに大傑作だったのだ。もちろん、政治的問題、それに紐付く映画の問題もあれども、彼でなければ作れなかったであろう世界がそこに広がっていたのであった。今回はネタバレありで語っていくとする。
『オッペンハイマー』あらすじ
「ダークナイト」「TENET テネット」などの大作を送り出してきたクリストファー・ノーラン監督が、原子爆弾の開発に成功したことで「原爆の父」と呼ばれたアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーを題材に描いた歴史映画。2006年ピュリッツァー賞を受賞した、カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンによるノンフィクション「『原爆の父』と呼ばれた男の栄光と悲劇」を下敷きに、オッペンハイマーの栄光と挫折、苦悩と葛藤を描く。
第2次世界大戦中、才能にあふれた物理学者のロバート・オッペンハイマーは、核開発を急ぐ米政府のマンハッタン計画において、原爆開発プロジェクトの委員長に任命される。しかし、実験で原爆の威力を目の当たりにし、さらにはそれが実戦で投下され、恐るべき大量破壊兵器を生み出したことに衝撃を受けたオッペンハイマーは、戦後、さらなる威力をもった水素爆弾の開発に反対するようになるが……。
オッペンハイマー役はノーラン作品常連の俳優キリアン・マーフィ。妻キティをエミリー・ブラント、原子力委員会議長のルイス・ストロースをロバート・ダウニー・Jr.が演じたほか、マット・デイモン、ラミ・マレック、フローレンス・ピュー、ケネス・ブラナーら豪華キャストが共演。撮影は「インターステラー」以降のノーラン作品を手がけているホイテ・バン・ホイテマ、音楽は「TENET テネット」のルドウィグ・ゴランソン。
第96回アカデミー賞では同年度最多となる13部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、主演男優賞(キリアン・マーフィ)、助演男優賞(ロバート・ダウニー・Jr.)、編集賞、撮影賞、作曲賞の7部門で受賞を果たした。
嫉妬の銃口は問いかける「戦争を終わらせるために原爆は必要だったのか?」と
『オッペンハイマー』は本来であれば1時間×6話のテレビミニシリーズで行うべき内容であっただろう。1時間×3部構成で疾風怒濤のように駆け抜けていく構成は、『落下の解剖学』のような理論と議論が激突する映画を好む私からしたら短い体感時間であったのだが、あまりにも駆け足すぎる物語であった。無論、劇場至上主義のクリストファー・ノーランなので映画に収めたといったところはある。また、従来の「IMAXで観るべきか?」問題に関しては、音響さえ良ければどこでも良いといった印象を受けた。映画の大半はアップによる議論なので、トリニティ実験での爆破描写以外でIMAXの大スクリーンが活かされることはなかったからだ。一方で、音に関しては重低音の使い方が面白い。よって結論としてIMAXの観点からは音をめちゃくちゃ拘るのでなければ、それなりの劇場で良いといったところだ。
さて、本題に入ろう。本作は「時の魔術師」ことクリストファー・ノーランとして大技に挑戦している作品である。映画の構成は先述のように3部構成である。各構成は主に3つの構成から成り立っているのだが、最後だけ微妙に異なる使い方をしており、それが物語をいい意味でも悪い意味でも興味深いものにさせている。
下記がその構成である。
[前半2部]
・聴聞会のオッペンハイマー(今)
・彼の回想(個が制御できる時制)
・公聴会(歴史として制御できない時制)
・オッペンハイマーの時制
・ストローズの時制
まず、前半から観ていこう。映画はFBIによって召集された聴聞会を中心にオッペンハイマーが回想するところから始まる。そこに、時折モノクロで公聴会の場面が挿入される。通常であれば、一番過去にあたる回想シーンがモノクロではないのだろうか?映画を追っていくと段々メカニズムが分かってくる。オッペンハイマーの回想は、まるで小説のようにドラマティックなのである。フランスの哲学者ポール・リクール「Réflexion faite」によれば、自伝は日記と違い小説であるとのこと。日々起きたことを連ねる日記と異なり、自伝は事象を整理し物語として組み立てていくからだ。それを踏まえると、戦後の公聴会の場面では、オッペンハイマーが歴史の人として自分の手で過去を制御できなくなってしまっている状況といえる。この自分で制御できるか否かの観点が重要であり、それを強調するために色を分けているといえる。
そして、後半に差し掛かるとこのモノクロの場面に別の文脈が加わる。オッペンハイマーの功績を妬むストローズの存在だ。Xでは本作の後半を『アマデウス』に例えている方が散見する。しかし、ノーランの文脈からすれば『プレステージ』の発展系と言うのが適切であろう。技術向上を共にしてきたオッペンハイマーとストローズ。しかしストローズは、いつしかオッペンハイマーの物語から影を潜めてしまう。戦後、ストローズは彼の地位を陥れようと政治的に追い詰めていく。そのキーとして赤狩りがあり、聴聞会はワナだったことが明らかとなるのだ。つまり『プレステージ』における天才マジシャンのアンジャーとボーデンの嫉妬合戦に、時制マジックの大技が加わったのがまさしく『オッペンハイマー』であろう。
山本圭「嫉妬論」でジョージ・フォスター「嫉妬の解剖学」による嫉妬からの回避方法が言及されている。
1.隠蔽:嫉妬の眼差しの対象にならないように振る舞う
2.否認:自分は嫉妬の対象にならない下の存在であることを提示する
3.賄賂:相手の利となるものを贈り、嫉妬の対象から外れるよう試みる
4.共有:自分の富を分け与えることで嫉妬を解消しようとする
上記の4段階で嫉妬による攻撃を回避していく必要があるのだが、オッペンハイマーの場合はすべてを貫通してしまい、徹底的な攻撃に遭う。それはまるでパワハラ上司が執拗に詰問を行い、複雑な心理の皮を剥がす過程で対象が実態と異なる発言を行い、疲弊にさらなる自己嫌悪を与えていくような強烈さがある。しかも、ストローズの場合、自分で直接手を下さないよう政治的にそれを実行に移すのである。
原爆の話から突然、嫉妬の話に転がったのには理由があるように感じる。ストレートに言えば、『オッペンハイマー』がアカデミー賞作品賞を受賞したのは、「嫉妬」の話へと巧みにすり替えたことにある。映画、原爆ドームが世界遺産登録される際にアメリカが出した声明のように「原爆が戦争を終わらせた」とは語っていない。むしろ、それに対して疑問を投げつけている。正面からそれを行えば、映画が広島・長崎について描いていないことで熱くなる日本のような燃え方をしたであろう。ただ、嫉妬の話へとシフトし、オッペンハイマーを尋問する問いとして「原爆が戦争を終わらせたのか?」と投げかけることで、刃を隠すことに成功している。一方で、このテクニックは原爆による罪と罰の後者を矮小化させてしまう問題が孕んでいる。ここは評価が分かれるところであろう。
ただ、私個人としては映画における時間表現を用いた心理的距離感の掴み方に魅了された節がある。物理学者としてのプレイヤーからトリニティ実験リーダーとしてのマネージャーとなり、学者同士の対立、政治関係を調整し、時にはダブルスタンダードを飄々と取る。そしてプロジェクトは成功となるが、自分の手からプロジェクトが離れた時に罪悪感、孤独感がオッペンハイマーの中で広がる。彼はアメリカ社会では称賛された。称賛されるべき顔をしつつも、心の中では不安が渦巻く。それを、光と音を使ったノイズで表現している。また、ワンカットだけ挿入される後半のリンゴシーンに注目してほしい。冒頭にむかつく教授を殺すためにリンゴに青酸カリを混ぜるも、ビビって戻ってくる場面がある。オッペンハイマーが教室へ戻ると、ふたりの男がいて片方がリンゴを持って話しかける。彼がリンゴを食べるかどうかの宙吊りの中、オッペンハイマーは制止の手を伸ばす。もし、この時に手が間に合わなければ男は死に、オッペンハイマーは捕まっていたであろう。すなわち、広島長崎に原爆は落ちなかったかもしれない。このオッペンハイマーが不安になった瞬間に想起される「リンゴを食べた後の世界線」があの刹那なワンカットで演出されているのである。
さらに、広島長崎を描かなかったのも正しいと思っている。オッペンハイマーは実際にトリニティ実験で凄まじいキノコ雲を見ている。彼は映画の中では原爆が投下された後の広島長崎に行っていない。しかし、伝わってくる情報と自分が目の当たりにしたものを結びつけて強烈な罪悪感を抱く。その罪悪感は孤独なものであり、その孤独さを表現するためには画を魅せないことが重要である。観客へのわずかな提示として灰の肉体がボロボロ崩れる場面で十分なのだ。
ということで、賛否両論あれども、個人的に批判すべき部分はあれども2024年上半期ベストに選びたい作品であった。
P.S.日本では、原爆被害やら広島長崎うんぬんで燃えがちだが、ここで原爆ドームが世界遺産登録される際の中国の声明を思い出してほしいものがある。「すべてわかる世界遺産大事典(上)」によると次のような声明となっている。
「第二次世界大戦中、アジア各国、及びその国民たちは侵略や虐殺などのつらい歴史を経験してきた。しかし現在においても、その事実を否定し続ける人が、少数ながら存在する。このような状況のなか、稀有な例といえるかもしれないが、広島平和記念碑の世界遺産登録が、前述のような少数の人たちによって悪用されないとも限らない。当然、このようなことは、国際平和の維持に良い効果をあげるものではない」
正直、日本人が原爆についての話をする時、日本のアジア侵略について同時に議論することなく、被害者意識を強調するために加害者であることを薄めているような印象がある。なので『オッペンハイマー』における日本の扱いについて、被害の面だけ取り出されるのは適切ではないと感じている。