【YIDFF2023】『ニッツ・アイランド』リアルとヴァーチャルの狭間で

ニッツ・アイランド(2023)
Knit’s Island

監督:ギレム・コース、クエンティン・ヘルグアルク

評価:100点


「どうしてそっちがリアルでこっちがヴァーチャルなの?」
これは、かつて『にじさんじ』に所属していたVTuber黛灰が我々に投げかけた言葉である。メタバース、VTuberの存在が広く知れ渡るようになり、「スノウ・クラッシュ」や「ニューロマンサー」などといったSF小説の世界が今や現実のものとなりつつある。アバターを纏い、一日の大半をゲームや配信、Chatツールの中で過ごすことが当たり前になる。いやいや、そんなのは一部の人だけでしょと思う方も旧TwitterことXなどといったSNSでは親から与えられた名前と異なる名を纏い、職場や学校、親の前とは違った側面を提示している。つまり、知らず知らずのうちに物理世界と仮想世界で提示する自己を切り替えながら我々は生きているのだ。

さて今回、山形国際ドキュメンタリー映画祭で驚くべきドキュメンタリーが上映された。それが『ニッツ・アイランド』だ。映画のほとんどをオンラインゾンビゲーム「DayZ」の中で撮影された本作は、U-NEXTにある『バーチャルで出会った僕ら』同様、仮想空間でコミュニティを形成する者たちの生態系に迫っている。監督のギレム・コースはQ&Aの中で、「グランド・セフト・オート」で見かけたあるプレイヤーからこの映画の着想を得たと語っている。「グランド・セフト・オート」といえば、ギャングとして様々なミッションをこなしていくオープンワールドゲームである。精巧に作り込まれた街並みが特徴的であり、物理世界ではできないような殺人を物理世界と同じような空間で行えることが魅力となっている。その特性ゆえ、ゲーム内で物理世界同様に交通ルールを守ったりすることが非常に難しいのだが、彼はゲーム内で「なにもしない」プレイヤーを見つける。オンラインゲームの世界では時としてそういう人種がいるようで、それは『ニッツ・アイランド』でも提示される。今回はこの映画について語っていく。

『ニッツ・アイランド』概要

ゾンビで溢れた世界でサヴァイブせねばならないオンライン・ゲーム『DayZ』。その仮想空間を利用し、匿名のユーザーたちが交流しているコミュニティの内側にフランスの映画クルーが潜入、963時間の取材を敢行する。ゲーム内で暴虐を尽くす集団、博愛主義者のグループ、単独行動を続けるユーザーらと出会い、それぞれがプレイに没入してきた理由がインタビューで語られていく。画面のアバターに重なる声、マイクがひろう生活音が、オフラインにいる生身の存在を伝える。やがて映画クルーは、ゲーム空間の限界を探索する旅へ向かう。

山形国際ドキュメンタリー映画祭サイトより引用

リアルとヴァーチャルの狭間で

序盤は、多くの時間をゲーム内で過ごす人々にインタビューする方式を取っている。個性的な衣装を纏い、独特な語りをする人たち。「ニューロマンサー」のような異様な光景が映し出されている。ゾンビゲームなので激しい戦闘の中でインタビューをするのかと思いきや、ほとんど戦闘シーンはなく、廃墟のような空間で野菜を育てていたり駄弁っているところを見せていく。『バーチャルで出会った僕ら』の場合、大きなコミュニティがありそこで自分の役割、例えば、手話によるコミュニケーション手法を教えるみたいなことをするのだが、この映画の世界では虚無に見えるような集団行動が顕著に表れている。特に衝撃的なのは、現実のトレッキング同様に7時間ぐらいかけて嵐の中、自然を歩いていくといったゲームの本筋とは関係ないかつ異様な単純作業を集団で行っている場面があるのだ。しかも、途中でなにを思ったのか自爆する者がいる。あまりにも異様な光景だ。

段々と、監督たちはこのゲームのユーザーと親密な関係となっていき、被写体が抱える葛藤が炙り出される。子育てをしながら「DayZ」にのめり込む者は、子どもにはやらせたくないと語る。また物理世界では神父として生きる者は、どうせ話してもわかってくれないと語る。さらには、ゲームの中で親密になった相手とは物理世界ではあまり会いたくないし、ゲーム内での名前では呼ばないだろうと語る。仮想世界と現実が逆転することに対して抵抗を示す者もいる。この感覚はVTUberが社会的地位を確立しつつある、日本とは違った感触に見える。実際に監督に質問してみたら、フランスでもストリーマーの存在はあるが稼げるのはほんの一握りとのこと。もちろん、日本でもそうなのだが、監督の語りから感じる空気感と映画での印象を踏まえると、フランスにおいてゲーマーはかなり肩身が狭い身分であることが窺える。

一方で、日本のVTuber文化と通じる発言も捉えられている。ゲームのユーザーは「なりたい自分」を纏う。そして演技をする。だが、長時間仲間とプレイしていくうちに、自己が滲み出る。完全に自分を偽ることは無理だと語られる。これはVTuberも同様だろう。物語を背負っているVTuberも長時間配信していく中で、性格が滲み出て、それが演技にも反映され文脈を生み出していくのだ。

本作は、ゲーム論をはじめメタバースやVTuber研究をする上で極めて重要な作品といえる。山形国際ドキュメンタリー映画祭だけでなく、一般公開、もしくは配信などで多くの人に観られてほしい作品である。むしろ、日本の方が関心持つテーマであろう。