『せかいのおきく』崇高なるクソ映画※酷評ではありません

せかいのおきく(2023)

監督:阪本順治
出演:黒木華、寛一郎、池松壮亮、真木蔵人、佐藤浩市、石橋蓮司etc

評価:80点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

阪本順治といえば、『闇の子供たち』や『半世界』など堅実な作品で批評家からも大衆からも一定の評価を得ている監督のイメージが強い。しかし、『団地』のようにたまにトリッキーな作品を放つことがある。2023/4/28(金)より公開された新作は時代劇、ポスターヴィジュアルや宣材写真を見ると山中貞雄リスペクトな人情ものなのかと思う。しかし、蓋を開けたら強烈な作品であった。Twitterでも、当たり障りのないようなコメントが相次いでいるがそれも納得。不快感なく、この映画を紹介することが不可能に近いのだ。なので、ここで2つ忠告をする。

1.本記事は吐き気を催す可能性があります。
2.本作を鑑賞する際には、飲食物は買わない方がいいかもしれません。本来はコンセッションを使ってほしいのですが、大変なことになると思います。

それでは感想を書いていく。

『せかいのおきく』あらすじ

「北のカナリアたち」「冬薔薇(ふゆそうび)」などの阪本順治監督が、黒木華を主演に迎えて送る青春時代劇。

江戸時代末期、厳しい現実にくじけそうになりながらも心を通わせることを諦めない若者たちの姿を、墨絵のように美しいモノクロ映像で描き出す。武家育ちである22歳のおきくは、現在は寺子屋で子どもたちに読み書きを教えながら、父と2人で貧乏長屋に暮らしていた。ある雨の日、彼女は厠のひさしの下で雨宿りをしていた紙屑拾いの中次と下肥買いの矢亮と出会う。つらい人生を懸命に生きる3人は次第に心を通わせていくが、おきくはある悲惨な事件に巻き込まれ、喉を切られて声を失ってしまう。

中次を寛一郎、矢亮を池松壮亮が演じ、佐藤浩市、眞木蔵人、石橋蓮司が共演。

映画.comより引用

崇高なるクソ映画※酷評ではありません

まず、この映画は崇高なるクソ映画だった。「クソ映画」といえば、クオリティが低い映画に対してレッテルを貼る際に使われるネットミームだ。個人的には、「クソ映画」と言った時点で、その作品に対するバイアスがかかってしまうので、余程のことがない限り使わないようにしている。しかしながら、『せかいのおきく』に関してはこれ以上にないほど「クソ映画」だった。

池松壮亮演じる主人公・矢亮は、便所からクソを採取する仕事をしている。それを農家に売って生計を立てている。白黒であるのだが、肥溜めに蓄積されたクソを柄杓で掬い、どぷっどぷっ生々しい音を立てながら回収されていく様はスクリーン内にまで悪臭が漂いそうなほどに強烈だ。しかも、3Kに近い仕事をしているにもかかわらず、クソを回収すると、坊主にお金を払っているのである。歪なビジネスモデルがこれまた観る者に衝撃を与える。そして、映画は短編集方式となっており、各物語の最後にカラーへと切り替わるのだが、大雨でクソまみれとなった長屋の後始末をするパートでは、便器いっぱいに逆流した茶色の汚物が肥溜めに戻っていく様子をカラーで捉える。正直、吐きそうになった。

さて、物語は矢亮と相棒の元紙屑拾い・中次(寛一郎)、彼のことを想う身分違いの女・きく(黒木華)の三角が描かれる。しかし、各物語がまるで日記のようにあっさりしたものとなっているので、突然きくが喉元を斬られて声が出せなくなってしまうのである。困惑に困惑を呼ぶストーリーテリングながらも、観終わってみると何故だか心に沁みるものを抱いた。社会の最下層で生きる者、人々から嘲笑される者に差し伸べられる手。そのカタルシスは言語的なものではなく身体的なコミュニケーションによって生まれていく。クソにまみれた世界を通じて、観客は見えなくなってしまった属性の中の個を知る。映画において階級を超えるとは、フィクションの中だけでなく、観客にまで影響を及ぼすことが必要だと阪本順治の強い信念を感じる。まさしく崇高なクソ映画であり、3Kな仕事につく者に対して優しくなりたいと思う作品であった。

※映画.comより画像引用