【ネタバレ考察】『グリーン・ナイト』伝説として消費された時、存在から見放される

グリーン・ナイト(2021)
The Green Knight

監督:デヴィッド・ロウリー
出演:デヴ・パテル、アリシア・ヴィキャンデル、ジョエル・エドガートン、サリタ・チョウドリー、ショーン・ハリス、ケイト・ディッキー、バリー・コーガン、ラルフ・アイネソン、アナイス・リッツォ、エリン・ケリーマンetc

評価:95点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

待ちに待ったデヴィッド・ロウリー『グリーン・ナイト』が公開された。A24映画は配給権が高いらしく、日本には来ないのではと噂されていたが、A24公開ラッシュの波が日本に押し寄せると共に上映が決まり歓喜感極まっている状態であった。ハードルが上がりに上がった状態で観た。正直、この手のコスチュームプレイは苦手なのだが、本作は待った甲斐があった。場外ホームラン級の大傑作であった。今回はネタバレありで書いていく。

『グリーン・ナイト』あらすじ

「指輪物語」の著者J・R・R・トールキンが現代英語訳したことで知られる14世紀の叙事詩「サー・ガウェインと緑の騎士」を、「スラムドッグ$ミリオネア」のデブ・パテル主演で映画化したダークファンタジー。「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」のデビッド・ロウリーが監督・脚本を手がけ、奇妙な冒険の旅を通して自身の内面と向き合う青年の成長を圧倒的映像美で描く。

アーサー王の甥であるサー・ガウェインは、正式な騎士になれぬまま怠惰な毎日を送っていた。クリスマスの日、円卓の騎士が集う王の宴に異様な風貌をした緑の騎士が現れ、恐ろしい首切りゲームを持ちかける。挑発に乗ったガウェインは緑の騎士の首を斬り落とすが、騎士は転がった首を自身の手で拾い上げ、ガウェインに1年後の再会を言い渡して去っていく。ガウェインはその約束を果たすべく、未知なる世界へと旅に出る。

共演は「リリーのすべて」のアリシア・ビカンダー、「華麗なるギャツビー」のジョエル・エドガートン。

映画.comより引用

伝説として消費された時、存在から見放される

酩酊状態ともいえるフラフラとしたカメラワークは、肉体と精神が軟弱に結びついているような男サー・ガウェイン(デヴ・パテル)を捉える。彼は女を追い、人が賑わう狭い道を突き進む。コインを投げて、女をものにしようとするも、手綱は彼女が握ったままである。彼はイキり男である。自信ありげに振る舞うが社会においてはモブキャラであり、彼のアクションに他者は応じない。コインの場面はその予兆として挿入され、実際には緑の騎士が仕掛ける挑戦の場面へと繋がっていく。緑の騎士が「自分の首を斬れ。斧をやろう。ただし、1年後に俺を探し出せ。そして同じ打撃を受けろ。」と挑発する。明らかに誰得?何がしたいんだ?と思うような内容である。当然ながら、集会場にいる男たちは、無言の圧でこの取引を押し付けあっている。そんな中、サー・ガウェインが名乗りを挙げる。しかし、剣はない。「剣を貸してください。」と投げかけるが、周囲の男たちは応じない。彼は憐れみの目で長から剣を与えられる。その勢いでイキり怯えながらも緑の騎士の首を落とす。

そして伝説になる。

伝説になるとはどういうことか?それは社会が与えた「物語」を押し付けられることである。町ではスペクタクルで彼の偉業が老若男女に伝えられる。しかし、その後の運命も決定されてしまう。つまり、サー・ガウェインは緑の騎士に斬首されるのだ。伝説になったが、中身のない彼にとって流れる時間は早い。あっという間に1年が経ち、運命と対峙する羽目となる。伝説として消費され、個の存在が社会から見放されてしまったことを象徴するように、彼は町を追放される形で冒険に出ることとなる。

町(=現実)の外側にはフィクショナルな世界が広がっている。巨人がいたり、動物が語りかけたり、異様な色彩に覆われていたりする。しかし、フィクショナルな世界で実体を掴み続けることで、空っぽな肉体に自己が注ぎ込まれる。それを「運動」で象徴させる。上記の通り、町パートにおけるサー・ガウェインは酩酊状態のようにふにゃふにゃした動きを捉えている。しかし、町の外側では水の流れに逆らう、大きな斧を背負い歩くといった、動きに重みが感じられる。ここで、幽霊女が「私の実体は泉の底にあるの。」と語る場面に着目する。泉は水の反射により虚像を映し出す。そんな虚像へ飛び込み、底にある骸を掴む。すると幽霊(=虚像)は消える。実体を手にした時、虚像が消える様子は、本作が描く伝説(=虚像)によって押し込められた実体を引き摺り出す物語を象徴しているといえる。


このテーマを深掘りするにあたって、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』を彷彿とさせる時間跳躍の技術が使われている。フィクショナルな世界であっても、当事者であるサー・ガウェインにとって眼前に映るものは「現実」である。その観点は、新しい次元を生み出す。緑の騎士と対峙し、斬首を受ける直前に彼は「この問題から逃げた後の世界線」を考える。問題を闇に葬る。威厳を保つためには沈黙をすることで王にまで昇り詰めるが、それは1年の猶予を「伝説」としてあり続けることで先延ばしにした過去同様、結局は再び運命が訪れてしまう。では訪れた運命に対して何をすれば良いのだろうか。彼は、長い別次元の旅の中でヒントを得て、それをもって死を免れる。

これはファンタジーでありコスチュームプレイだが、現実にも直接繋がる思索の本質が鋭く捉えられている。他者によって我々の役割や性格が定義される。しかし、それは時として個人の本質を隠蔽したり抑圧してしまったりする。個人にとって聖域は思索の中にある。思索自体は、他者が認識可能な領域にまで侵入しない。一方で、思索の中では意識的/無意識的に困難が生み出される。それは混沌としておりフィクショナルな世界ともいえる。だが、思索している人にとってそれは「現実」であり、時として痛みを伴う。サー・ガウェインは社会から見放されていた存在だが、伝説になったところで内面への関心は抱かれず与えられたイメージだけが流布されていく。そんな中で、フィクショナルな世界を彷徨い、自己を掴んでいき、その中で育まれた想像力が問題を打破する。

その観点をカタルシスとして映像に収めたデヴィッド・ロウリーの所業に私は打ちのめされたのであった。

※IMDbより画像引用