『バビ・ヤール』他者からの文脈を前に我々は何も見ていない

バビ・ヤール(2021)
Babi Yar. Context

監督:セルゲイ・ロズニツァ

評価:95点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

セルゲイ・ロズニツァ監督が「バビ・ヤール大虐殺」を描いた『バビ・ヤール』がついに公開された。本作は単にウクライナの悲惨さばかりに目を向けたドキュメンタリーではなかった。今年最重要のドキュメンタリーであった。

『バビ・ヤール』概要

「ドンバス」のセルゲイ・ロズニツァ監督が、第2次世界大戦における独ソ戦の最中にウクライナの首都キエフ(現表記キーウ)郊外で起きた「バビ・ヤール大虐殺」を描いたドキュメンタリー。

1941年6月、ナチス・ドイツ軍は独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻。占領下のウクライナ各地に傀儡政権を作りながら支配地域を拡大し、9月19日にはキエフを占領する。9月24日、キエフで多数の市民を巻き込む大規模な爆発が発生。実際はソ連秘密警察がキエフ撤退前に仕掛けた爆弾を遠隔操作で爆破したものだったが、疑いの目はユダヤ人に向けられた。翌日、当局はキエフに住むユダヤ人の殲滅を決定し、9月29日から30日のわずか2日間で、キエフ北西部のバビ・ヤール渓谷で3万3771名のユダヤ人が射殺された。

ホロコーストにおいて、1件で最も多くの犠牲者を出したとされる事件の過程とその後の歴史処理を、全編アーカイブ映像で描き出す。

映画.comより画像引用

他者からの文脈を前に我々は何も見ていない

歴史とは、「ヒトラー」、「スターリン」のように固有名詞として後世に語り継がれる人だけで紡がれるものではない。それ以外の、忘れ去られた人の運動と結果が地層のように積み重なって歴史は形成される。『バビ・ヤール』は、フッテージをつなぎ合わせ、無数の朧げな人の影を通じて大きな運動を捉えようとする。戦火の足音が聞こえてくると、街は慌ただしくなり、通りではヒトラーのポスターを貼る者、群がる者による波が形成されていく。やがて、ナチス・ドイツがウクライナへと侵攻していく。そして人々は連行されていく。無数に続く人の鎖は、容赦なく建物を燃やしていく。

そしてバビ・ヤールで殺戮が行われた。殺戮後の様子は、映像ではなく写真で、つまり静止したものとして提示される。谷にて無数に積み上がるヒト、ヒト、ヒトの塊、ヒトが人だった頃の形跡が強烈に眼前に叩きつけられるのだ。

後半になると、ソ連がウクライナを奪還し裁判となる。我々は2022年に、セルゲイ・ロズニツァ監督の編集によって、当時の人が瞳に焼き付けるしかできなかったもの、部分的にしか知ることのできなかった歴史の全てを知った気になっている。

しかし、軍人が淡々と120人近く殺してきた語りを聞くと、我々は全てを観た気になっているが何も観ていないことに気付かされるのだ。歴史とは、無数にある過去を語り手が編集して提示される真実であるため、真実は人の数だけあるのだ。惨劇の場所バビ・ヤールが産業廃棄物によって埋められて、「過去」が忘却の彼方に追いやられるかに思える場面は、ある真実が踏み躙られることを象徴しているように思える。

そして、歴史の流れの中で復讐として行使される暴力。我々はナチス・ドイツによる殺戮の瞬間を観ることはできないが、被害者による膨大な憎悪が生み出した暴力による死を目の当たりにする。

凄まじいスピードで過去が刷新され、真実が紡がれていく勢いの中で人は倫理を簡単に超えてしまう。本作はバビ・ヤールの惨劇に関するドキュメンタリーの枠に留まらず、まさしく「今」を、「未来」を語っているのである。『バビ・ヤール』の原題は”Babi Yar. Context”。つまり、我々が歴史を見る時に「Context(=文脈)」を把握する重要性を訴えており、他者から語られる「歴史-文脈(=Histroty.Context)」を批評的に見る手法を提示しているのだ。

これを踏まえると『バビ・ヤール』はクロード・ランズマン『SHOAH ショア』を立体的に描いた作品と言える。『SHOAH ショア』ではホロコースト関係者による語りを通じて、鑑賞者の脳裏に凄惨なイメージを焼き付けるドキュメンタリーであった。『バビ・ヤール』では、映像、静止画、そして語りの3つを通じて歴史を構成する。前半では、事実である映像、静止画を並べていく。しかし、後半の語りによって、フレームが捉えることのできなかった事実を、他者の語り(=事実を繋ぎ合わせた真実)を介して知る。それにより、「バビ・ヤール大虐殺」を立体的に捉えることに成功している。

12月には元リトアニア国家元首ヴィータウタス・ランズベルギスの政治活動を追った4時間にも及ぶドキュメンタリー『ミスター・ランズベルギス』が公開される。こちらも楽しみだ。

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※映画.comより画像引用