『必殺! 恐竜神父』VFX:Car on fire

必殺! 恐竜神父(2018)
The VelociPastor

評価:90点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

先日、ラジオで映画ライターの村山章さんが『ノー・シャーク』と併せて紹介していて妙に気になったので観てみました。B級映画と侮るなかれ。これが大傑作であった。

『必殺! 恐竜神父』あらすじ

敬虔な牧師ダグは自動車の爆発事故で両親を失い、傷心の旅で中国を訪れる。そこで忍者に追われる謎の女性から牙の化石を受け取るが、その牙は人間を恐竜に変身させる力を秘めていた。強大な力を得たダグは娼婦キャロルと協力し街のために悪人退治を始めることとなる。彼らは悪党たちとの戦いの末にチャイニーズ・ニンジャ軍団が全ての黒幕だと知る事になるが…。

Amazon Prime Videoより引用

VFX:Car on fire

映画におけるフィクションとは何だろうか?

目の前に提示されるスクリーンの外側にいる「我々」とは異なる世界。セット、他者を演じる役者、VFX、そして物語からなる世界。作品によっては現実とは異なる物理法則があるだろう。我々は、それを一旦受け入れる。映画におけるフィクションとはつまり、観客とスクリーンがある種の共犯関係を結ぶことで現出するものといえよう。

さて、我々が劇場で観る映画は、予算をかけて作り込まれたものだ。しかし、世の中には超低予算な映画があり、フィクションを生み出すための十分なセットを作れないことがある。そのような事態において、映画は観客の想像力を刺激した演出をしかける。『マックイーンの絶対の危機』では、人喰いアメーバ・ブロブの登場シーンこそ少ないが、得体の知れない恐怖に逃げ惑う人の群れを捉えることでフレームの外側にあるモンスター像を観客の脳裏に現出させている。

さて、今回観た『必殺!恐竜神父』では、一見馬鹿げた内容であるが巧みな業により、私をフィクションの快楽へと誘った。

まず冒頭。ウィレム・デフォーにどこか似ている神父が教会の外へ出ると車が止まっている。神父の顔をカメラが捉えた途端、惨劇の悲鳴が木霊する。カメラは車を捉え直そうとするが、そこにあったのは業火に燃える車体でも焼け爛れた肉体でもない。

“VFX:Car on fire”

のテロップだった。予算の関係で挿入できなかったであろう業火に豪快に燃ゆる炎を潔く説明で済ませ、観客の脳裏で再現させようとするのだ。本作はこのようなメタ演出に満ち溢れており、忍者が現れるパートでは大きく”CHINA”とテロップを流すことで舞台が中国であると定義したりする。メタ演出は、物事を冷めた目で見るため多様すると観客の没入感まで冷やしてしまう。

しかし、『必殺!恐竜神父』は創意工夫の大名行列により、観客に手錠をかけ、どうかしている物語の共犯者として決して手を離すことはない。

例えば、懺悔室での場面。画面はスプリットスクリーンになり、男の圧が神父を追い詰めるのだが、スプリットスクリーンの壁と懺悔室の壁を丸ごと粉砕して襟元を掴もうとする場面がある。これは、映画のフレームとしての空間と映画内世界における空間を連動させたアクションとなっており、神父の燃ゆる魂へ惹き込む役割を担っている。

また、恐竜モードになった神父が忍者の矢に当たり、変身が解除されてしまう場面では、一旦フィルムを意識した映像になり、フレームの中で元の姿に戻るユニークな演出をしている。単にカットの切り返しで元に戻すのではなく、まるでマリオがクリボーに当たり小さくなるようなゲーム的身体変化をフィルムのコマを意識させた空間で行う。これによりホームビデオのようなバトルシーンが力技であるものの、映画へと昇華されていくのである。

あまりのレベルの高い演出に感動し涙まででてきた。こういう出会いがあるから映画はやめられないのである。

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