【ネタバレ考察】『ゴジラvsコング』から観る拳で語るとは?

ゴジラvsコング(2021)
Godzilla vs. Kong

監督:アダム・ウィンガード
出演:アレクサンダー・スカルスガルド、ミリー・ボビー・ブラウン、レベッカ・ホール、ブライアン・タイリー・ヘンリー、小栗旬、エイザ・ゴンザレス、ジュリアン・デニソン、カイル・チャンドラー、デミアン・ビチル、ジェシカ・ヘンウィックetc

評価:85点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

2014年から始まったハリウッドゴジラユニバース完結編である『ゴジラvsコング』が遂に映画館で上映された。ゴジラ大国でありながらもいつも通りハリウッド大作の公開が遅い日本では、海外の人のネタバレを踏んでしまいtwitterでは阿鼻驚嘆となっていましたが、皆大味なポップコーン映画に飢えていたのか、公開されるや否やお祭り状態となっている。当然ながら私もその一人。直接的なネタバレこそ踏まなかったものの、なんとなくツイートで察してしまった悲しい人です。でもこの映画だけは映画館で観ようと待ちました。そして大正解でした。

監督は『ブレア・ウィッチ』やNetflix版『DEATH NOTE/デスノート』といった衝撃的なポンコツリメイクを放った悪名高きアダム・ウィンガード。数年前から警戒していたのですが、これが実に素晴らしかった。『DEATH NOTE/デスノート』では『DEATH NOTE/デスノート』の看板を背負ってなければ爆笑映画として花丸だったのところがある。あの原作が知能指数の低さに耐えられなかったのだ。だが、本作の場合、前作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が狂人宗教だったため、それを継承しストーリーのポンコツさは弁当のスパゲッティレベルにまで抑制することに成功した。その結果、眼前に映るのは胸踊るアクションシーンと面白おかしいツッコミどころのエレクトリカルパレードであった。恐らく『バトルシップ』並みに愛されるおバカアクション映画であろう。ただ、本作をおバカアクション映画として消費してしまうのは大変勿体無いところである。確かに、脚本はムチャクチャで人によっては退屈するだろう。だが、アクションシーンにおいては現代映画が忘れてしまった画で語ること。サイレント映画が大切にしていた映画の特性を蘇らせる勢いがあった。サイレント映画として観た際にも胸打つ場面が多い作品だったのだ。言葉でわからなければ拳で語流のはハリウッドアクション大作の定番であるが、今回はその緻密なゴジラとコング、そして人間の身体表象から魅力に迫っていこうと思う。尚、ネタバレありなので要注意。

『ゴジラvsコング』あらすじ

ハリウッド版「ゴジラ」シリーズの「GODZILLA ゴジラ」(2014)、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」(19)と、「キングコング:髑髏島の巨神」(17)をクロスオーバーして描く「モンスターバース」シリーズの第4作で、ゴジラとキングコングという日米の2大怪獣が激突する。モンスターの戦いで壊滅的な被害を受けた地球。人類は各地で再建を計り、特務機関モナークは未知の土地で危険な任務にあたりながら、巨大怪獣のルーツの手がかりを掴もうとしていた。そんななか、ゴジラが深海の暗闇から再び姿を現し、世界を危機へ陥れる。人類は対抗措置として、コングを髑髏島(スカルアイランド)から連れ出す。人類の生き残りをかけた戦いは、やがてゴジラ対コングという未曽有の対決を引き起こす。監督は「サプライズ」やNetflix実写版「Death Note デスノート」などを手がけたアダム・ウィンガード。出演はアレクサンダー・スカルスガルド、レベッカ・ホール、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」から引き続き登場するミリー・ボビー・ブラウン、カイル・チャンドラーほか。また、「GODZILLA ゴジラ」「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」で渡辺謙が演じた芹沢猪四郎博士の息子・芹沢蓮役で小栗旬が出演し、ハリウッドデビューを飾った。

映画.comより引用

『ゴジラvsコング』から観る拳で語るとは?

本作ははっきり言って格闘技映画だ。『ロッキー』や『レイジング・ブル』のように7年間かけてそれぞれのフィールドで戦ってきたゴジラとコングが王座をかけて戦う。それが中心に添えられている。そして、従来の格闘技映画は、人間と人間が至近距離で拳と拳をぶつけ合うため、中々カメラが肉体に近づくことができなかった。場外やレフリー目線、時折顔のアップを魅せるといった感じで、創意工夫の演出で肉体を画に収めようとしていた。本作の場合、モーションキャプチャーは使用されているものの、最終的にはCGが仕事をする。アダム・ウィンガード監督を中心とする、怪獣映画マニアが憧れる画や演出を所狭しと紡いでいく訳だが、その接続が、特撮への敬意を表しつつも、CGのみが可能とする領域にまで押し上げている。その結果、ゴジラとコングが、目の前で見えたもの/見えなかったものから戦略を考え次なる攻撃を加えるといった知性溢れるアクションを大スクリーンというキャンバスに塗りたくることに成功している。

例えば、戦艦の上での戦闘シーン。コングは水中に潜むゴジラの動きを読んで、戦艦から戦艦へと飛び移る。コングが戦艦にドスンと飛び移ると、目の前で戦闘機が飛び立つ。それを見たコングは足元に注目する。すると戦闘機がある。戦闘機=飛び道具とコングは判断し、それをゴジラに投げつける。そこにサービスショットとして、コングに投げ飛ばされる戦闘機の中にいたパイロットの目線が挿入される。アクションからアクションの遷移を追尾するように、コングの武器目線として戦闘機のパイロットを映すショットに唸らされる。

また、香港での戦闘シーンでは、ゴジラが上方向の視野が狭いことを利用し、ビルの上からコングが奇襲をかけるところも斬新だ。巨大怪獣同士の戦闘にも関わらず、高低差を意識させるアクションがある。ここでもコング目線のショットがあり、ただ監督が思い描いたヴィジョンを置くのではなく、コングの思索を通じて急襲させているところに魅力を感じます。

このようにゴジラとコング、人間の言葉を使えぬ者同士のノンバーバルコミュニケーションが物語の中心となっているため、人間サイドに聾唖の少女が配置されている。この少女とコングとの対話が「手話」で行われるのですが、非常に人間臭くて涙が出る。訳もわからず、起きれば船の上鎖に繋がれている。嵐の劣悪な環境の中、野ざらしにされるコングに対して、少女が手話で慰める場面は感動的だ。それだけに人間の都合で、コングを怪しげな穴に導く場面では胸が締め付けられる。明らかに嫌な予感しかしない穴。少女は大人に説得され、コングに「故郷があるよ」と伝える。コングはその少女の言葉が傀儡であることを何と無く察している。でも愛する少女の為に、危険があるとわかりながらも「いったるよ」と半ば空元気に穴へ突っ走るシーンには涙が出てきました。従来のハリウッドゴジラとは比べ物にならない表情の豊かさである。

そして、コングはゴジラによってボコボコにされノックアウトされたものの、白目を剥いた小栗旬によって暴走エヴァンゲリオンのようになったメカゴジラを協力しながら倒す。そして両者はメンチを利かせ、間を作り、ゴジラは背中で語りながら海に帰っていく。拳で語った末に、背中で別れを告げる場面に私は心の中で拍手をしました。これぞ拳で語ることなんだなと思いました。

こうした高度で強固なアクションの裏で、スピルバーグが得意とする子どもが危機に参加する物語が入ったり、水没する戦艦の操作盤は動作する一方でメカゴジラの操作盤は酒を垂らしただけでショートする、グループポリシーで制御すらしておらずよくわからない陰謀論者にUSBで情報を盗まれてしまうといったユーモラスな場面が散りばめられている。

お子様ランチを本気で作るということはこういうことなんだなと思います。

そんな私ですが、アダム・ウィンガード監督にこれだけは警告したい。

「決してエヴァだけは映画化しないでください!」

アダム・ウィンガード監督は明らかにエヴァンゲリオンが好きである。ゴジラが地底に穴を空ける場面はヤシマ作戦のラミエルを彷彿とさせる。そして人間サイドの本部は、NERV基地さながらである。だが、『DEATH NOTE/デスノート』で脳筋夜神月とLを生み出した彼にエヴァの物語れるのかと訊かれたら怪しい。ハリウッド版ヤシマ作戦は私も観たいのは山々ですが、彼にだけは映画化させてはいけないなと思いました。

P.S.手話を使ったギャグシーンがあるのはとてもよかった。自然体で出てくるので、これぞ映画における多様性のあり方だなと思った。本作のテーマが身体表象によるコミュニケーションということもありただのギャグになっていないところが鋭い。

※映画.comより画像引用