『タッチ・ミー・ノット』我に触れるなメラメラメラメラメランコリアに触れよ

タッチ・ミー・ノット~ローラと秘密のカウンセリング~(2018)
Touch Me Not

監督:アディナ・ピンティリエ
出演:ローラ・ベンソン、トーマス・レマルキス、ダーク・ラング、ヘルマン・ミュラーetc

評価:25点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

第68回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞するも、ルーマニア出身のアディナ・ピンティリエ長編初監督作にして非常に難解な実験映画故に日本公開が絶望的だと思われていた『タッチ・ミー・ノット~ローラと秘密のカウンセリング~』が日本公開することとなった。新型コロナウイルスの影響で、仮設の映画館にて先行上映されていたので観ました。当時、東京国際映画祭作品選定プロデューサーの矢田部吉彦が難色を示していた作品。確かに色々厳しいものを感じる作品でした。

『タッチ・ミー・ノット~ローラと秘密のカウンセリング~』あらすじ


ルーマニア出身の新人監督アディナ・ピンティリエがマイノリティの人々の性生活を虚実入り混ぜながら赤裸々に描き、長編初監督作にして第68回ベルリン国際映画祭の金熊賞(最高賞)と最優秀新人賞をダブル受賞した作品。父親の介護で通院する日々を送るローラは、自身も人に触れられることに拒否反応を起こす精神的な障がいを抱えていた。ある日、ローラは病院で患者同士がカウンセリングする不思議な療養を目にする。無毛症のトーマス、車椅子のクリスチャンら様々な症状を抱える人々が、互いの身体に触れ合うことで自分を見つめていく。自分と同じような孤独感を持つトーマスにひかれたローラは、街で彼に導かれるように秘密のナイトクラブに入り、そこで欲望のままに癒やし合う群衆を目撃する。主人公ローラを「お家に帰りたい」のローラ・ベンソン、彼女が思いを寄せるトーマスを「氷の国のノイ」のトーマス・レマルキスが演じる。
映画.comより引用

我に触れるなメラメラメラメラメランコリアに触れよ

TOUCH ME NOTをラテン語にするとNOLI ME TANGEREになる。

NOLI ME TANGEREはイエス・キリストが復活を遂げ、マリアの前に姿を表すが、彼女の抱擁を拒絶する有名なエピソードの名台詞である。そして、本作はマイノリティの接触における哲学を虚実曖昧模糊な形で考察してみせた作品。審査員長トム・ティクヴァ、それに次いでセシル・ド・フランス、Chema Prado(スペインの映画批評家)、アデル・ロマンスキー、坂本龍一、ステファニー・ザカレック(アメリカの映画評論家)が本作を最高賞に選んだことは、非常に挑戦的である。カンヌが社会問題をテーマにした映画に甘過ぎで、ヴェネツィア国際映画祭が米国アカデミー賞前哨戦に成り下がったことを受けると、こういった作品を最高賞に選ぶベルリンはまだ信頼ができる。

ただし、面白いかどうかはまた別の話である。

他者との接触を拒むローラは、誰かに理解されたい、誰かに抱擁されたいという感情を持っているが、それを拒絶してしまう。自慰に励む男を見つめ、彼の残り香漂うベッドを掴みその複雑な感情を表現する。そして、セラピーでは拒絶を瓦解させるため、カウンセラーがパンチ等を繰り出し接触を試みる。彼女は叫ぶ。叫ぶことによってメランコリックな気持ちを膿として絞り出させるのだ。

そんな彼女が目撃するのは、毛がない男、脊髄性筋萎縮症、知的障がい者等が集まって行われるセラピー。互いの感情を吐露し、見つめ合うことで孤独を溶かしていくセラピーだ。彼女はそこのコミュニティに片足をツッコミ、自分と向かい合う。胸のある男が自分のマイノリティで個人的な話をする。胸に名前をつけて、まるで恋人や子供のように接するその男の話を共有するのだ。

アディナ・ピンティリエ監督はトロント国際映画祭でのインタビューの中で、障がい者に対して性生活を送れない、保護される必要があると考えることは誤った概念であり、見下しの目があると語っている。その無意識/意識的悪意を、障がい者の歪なふれあいのセラピーで表現しているのだ。

しかし、どうだろうか?

監督が長期間にわたるリサーチで生まれた本作は、監督の社会批判が全面に描きこまれた結果、説明的になり過ぎてはいないだろうか?

例えば、ローラの憂鬱を表現するために、

「メラメラメラメラメランコリア」

と歌が流れるのだが、露骨な表現である。また、カメラを組み立て、障がい者の像を浮かび上がらせ、外見の問題を提示しようとするユニークなショットがあるのだが、何度も描くことでクドさが滲み出てしまう。そして、本作最大の欠陥は、セラピーが持つ自己を吐き出す行為が、映画という言語に変換せずに映し出されるため説明過多となってしまっているのだ。ドキュメンタリー畑の監督としても、映像で魅せるという表現に乏しいので映画ではないと感じてしまうのだ。

似たようなテーマを扱った『Chained for Life』や『37セカンズ』が映画的表現で複雑な心理を分析していたことを考えると、どうしても力不足に見える。そして2時間という時間が拷問のように長く見えてしまった。
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1 個のコメント

  • 自分を理解してもらう事と、他者と触れ合う事と、性交渉そのものと、性的嗜好の多様性。
    これらは、緩やかに繋がってはいるが、それぞれ別領域の問題であり、一緒くたに論じても意味がないばかりか危険であり、さらには一挙に解決を図る等というのは愚かしい事でしかない。

    つまり主題に於いて複数の事を同時に取り扱ってしまっているので、掘り下げは充分に出来ている筈もなく、監督本人は世の中の偏見を取り除きたいという(表面上は)意欲をもって描いているのだが、むしろ偏見を助長しているきらいもある出来となってしまった。なぜこれが金熊か。性的に過激な表現を盛り込む男性監督の作品は、往々にして男性目線のエロスを中心として描かれた凡庸なものが多い中で、今までになかった切り口であるという事が評価されたのだろうか。しかし・・・これでは映画表現というのは理性よりも感性、論理性よりも情緒性を優先させる、若しくは主題の掘り下げの深さよりも今までになかった感覚、新奇性を重視するのだという映画祭側からの表明にも思えて悲しい。

    例えば、表面上の言葉としては障碍者とそのパートナーのバランスが素晴らしい等というものは出てくるのだが、なぜその二人の触れ合いがあの悪魔的なイメージのSMクラブの中で行われるのだろうか?そもそもSMクラブというのは一般的に言ってあんなものなのか。アイズワイドシャットか。乳房のある男性もなぜか居るし。縄で吊るされる女性も出てきたが、監督はSM行為というものを非難したいのだろうか?なら何故それだけに主題を絞って描かないのか?

    なにか一貫した意思や透徹した思想によってこの作品は出来上がったのではなく、場当たり的に刺激的なイメージをかき集めてなんとなく作ってみた作品といったところなのだろう。ペニスのショットから始まるのも、肩パンして叫ぶのも、SMクラブも、少し不快で刺激的なイメージが欲しいだけで別に中身は何もない。リューベン・オストルンドと似ていると思う。

    最後に重要な事として、この作品は説明が舌足らずで困るという指摘を。おまけで流してくれたインタビュー映像で監督本人だとはっきりしたが、ハーフミラー越しの女性が誰で主人公との関係性が何なのかという基本的な事も蔑ろにしてこの映画は語り始めている。半裸で病室に横たわる老人男性もおそらくは父親なのだろうか。そして彼女がなんか投げて激昂したのとこれまでの流れから推測すると、父親から性的虐待にでもあっていたのか。マジで知らんけど。それとスキンヘッドの男性がストーカーしていた女性はSMクラブに居たのかどうか。雑に写されるだけでは、人物を同定する事すら難しい。

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