【書評】『ペスト』アルベール・カミュが未来に残したパンデミック予想

【書評】『ペスト』アルベール・カミュが未来に残したパンデミック予想

おはようございます、チェ・ブンブンです。

コロナ禍の中でアルベール・カミュの『ペスト』が再注目されている。ペストによって人類が不条理の渦に晒される状態をリアルに描いた本作は、今の世界の行動そのものだという声が相次いでいる。チェ・ブンブンもこの機会に読んでみました。

『ペスト』あらすじ

アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。外部と遮断された孤立状態のなかで、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を呼んだ長編。
新潮社サイトより引用

アルベール・カミュが未来に残したパンデミック予想

なんて恐ろしい小説なんだ。

本作を読み終わった私はこんな感想を抱いた。何と言っても、本作で描かれていることの大半は我々がここ数ヶ月で経験したことであり、しかもここで提示される行動のほとんどが将来を予言しているのだ。ネズミが不気味に街中で大量に死ぬ。珍事だと笑っている市民を余所に医療現場、研究者は徐々に増えていく患者に唖然とする。なんとかして警戒措置を取らねばならないのに、法律やら書類の手続きやらが邪魔してしまう。人間は社会を上手く運営する為に、合理的法律や規則を定義している。しかし、その合理的なものはこの手の迅速に広がる不条理を前に為す術がない。人間社会のバグのようなものだ。

医者のリウーはこう言う。

「問題は、法律によって規定される措置が重大かということじゃない。それが、市民の半数が死滅させられることを防ぐために必要かどうかということです。」

この判断ができるかどうかで、今世界での感染者数の抑制に差が出ている。台湾や韓国は比較的、その対処ができているのに対して、日本では規定を巡って右往左往しているうちに泥沼化していると言える。

そして本作でもロックダウンが行われている。今と違い、スマホもパソコンも存在しない。唯一の連絡手段は手紙だけで、裕福な人は郵便屋さんに掛け合って情報交換を外部と行なっていたのだが、手紙から感染する可能性があると手紙でのやりとりも全面的に封鎖され陸の孤島と化す。そして、市民は、今週こそ、今週こそ封鎖が解除されると思いつつ永遠の2週間を過ごす地獄は今の我々に通じている。

そして、その結果どうなるのかというと、

「病疫のこの突然の退潮は思いがけないことではあったが、しかし市民たちは、そうあわてて喜ぼうとはしなかった。今日まで過ぎ去った幾月かは、彼らの解放の願いを増大させながらも、一方また用心深さというものを彼らに教え、病疫の近々における収束などますます当てにしないように習慣付けていたのである。」

とペストが終息してももう戻らぬ日常が待ち受けていたのだ。

コロナに置き換えていえば、映画館や美術館、バーやレストランがコロナ終息後、再開しても、人々は病気によるトラウマから用心深く活動するため、文化的活気はコロナ前には戻れないと捉えることができるのだ。文化活動が大好きな自分は直視したくない。恐らくMiniTheaterAIDやSAVETHECINEMAで映画業界を応援している人も薄々そう感じつつも直視したくない現実であろう。

しかしながら、『ペスト』のあまりにも正確に今の行動を言い当ててしまっている様子を魅せられてしまうともうこの文言だけ無視することは不可能だ。だとしたら、もはや戻れない、団欒すら贅沢になってしまった世界でどのように既存の文化を脱構築するかしか方法はないのではないだろうか?ひょっとすると映画館は、かつて活弁士が消滅したように失われる文化になるかもしれない。それに取って代わる映画文化を後ろ髪を引かれる思いで掴むしかないのではと思うと涙しました。

恐らくブンブンは順応できてしまうだろう。でも、やっぱり映画館で映画を観たいし、あれだけ嫌だった上映中にポップコーンを買いに行くカップルや、陽気な映画泥棒が恋しい。

少し脱線しましたが、まだ『ペスト』を読んでいない方は今からでも遅くないので是非挑戦してみてください。

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