ウェンディ&ルーシー(2008)
Wendy and Lucy
監督:ケリー・ライヒャルト
出演:ミシェル・ウィリアムズ、ウォルター・ダルトン、ジョン・ロビンソンetc
評価:70点
おはようございます、チェ・ブンブンです。ケリー・ライヒャルトが第61回カンヌ国際映画祭ある視点部門に出品した『ウェンディ&ルーシー』を観ました。デビュー作『RIVER OF GRASS』、本作、そして『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』の直線を眺めてみると、ケリー・ライヒャルトはAnywheresになれないSomewheresに注目している作家だということがわかります。ということで『ウェンディ&ルーシー』から詳しくそのメカニズムについて語っていきます。
『ウェンディ&ルーシー』あらすじ
「マリリン 7日間の恋」のミシェル・ウィリアムズが主演を務め、愛犬とともに旅をする女性が思わぬ苦難に直面する姿を描いた人間ドラマ。ウェンディは仕事を求め、愛犬ルーシーを連れて車でアラスカを目指していたが、途中のオレゴンで車が故障し足止めされてしまう。ルーシーのドッグフードも底をつき、旅費を少しでも残しておこうと考えたウェンディはスーパーマーケットで万引きをする。店員に見つかって警察に連行されたウェンディは、長時間の勾留の末にようやく釈放されるが、店の外に繋いでおいたルーシーの姿は消えていた。野宿を続けながら必死にルーシーを探すウェンディだったが……。
※映画.comより引用
AnywheresになれないSomewheres
イギリスのジャーナリストDavid Goodhartは「AnywhereとSomewhereな人間がいる」と語っている。高い教養を備えており、世界中何処へでも暮らせるAnywheresな人間と、その土地に愛着を持っていたり学力等の関係である土地でしか生きることのできないSomewheresな人間がいるのだと彼は説いている。日本でも、ドンドン汚職や失策で凋落の一途を辿っていることに対し、「そんなに文句があるのなら、海外に住めばいいじゃん。」という人がいるが、彼らは国に不平を言う者がSomewheresな人間であることを全く考えていなかったりする。一見、フロンティア精神に溢れ、公用語も世界共通言語である英語が使われているアメリカですらその構図は成立することをケリー・ライヒャルトはカメラを通して訴えかけている。デビュー作『RIVER OF GRASS』では、退屈な世界から抜け出すために、『俺たちに明日はない』ばりの逃避行を始めた女のロードムービーではあるが、ロードムービー特有のある場所への憧れ、移動することにより解放される感情といった要素は極端に希薄である。徹頭徹尾、画面にはアンニュイな空気が流れ、ラストも渋滞した高速道路をノロノロ走る車を映して終わる。Anywheresになろうとして、実はSomewheresにしかなれないアメリカ社会のある側面を捉えているのではと薄ら感じさせる。そしてこの『ウェンディ&ルーシー』ではその傾向が顕著に現れている。本作は車で流浪の民として生きるウェンディと彼女の愛犬ルーシーのロードムービーであるが、全くもって移動が描かれていないのだ。彼女はありふれたアメリカの都市にほとんど留まっているのです。警察に拘留されているうちに行方不明となった犬を探すプロットを持ちながらも、冒険はそこにはない。警察と話して、フラフラそこらへんをほっつき歩くだけの移動しかこの映画は持ち合わせていないのだ。そして彼女が、何故《移動》を求めながらにして移動ができないのかという疑問に、貧しさが答えていくのです。
アメリカは広大な土地だ。自由の国だ。しかし、サブプライムローン問題以降、アメリカは自分が自由でいられる居場所すら保証されなくなってきた。近年ではジェントリフィケーション問題も勃発し、シリコンバレーの一流企業で働く者ですら高すぎる家賃を払えずに、車の中で生活を強いられる世の中となってしまった。どこへでもいけるが、自分の居場所は見つからない絶望というのをケリー・ライヒャルトは一貫して描いている。そしてそこには日本映画の閉塞感ものにありがちな、要素のパッチワークレベルの作劇はなく、映画的魅力も濃縮されている。
こういった描写を交えつつAnywheresになれないSomewheresを扱ってくるケリー・ライヒャルトはやはり面白い。これは追っていきたい監督と言えよう。
ブロトピ:映画ブログ更新
コメントを残す