【ネタバレ考察】『殺さない彼と死なない彼女』これからの「未来」の話をしよう

殺さない彼と死なない彼女(2019)

監督:小林啓一
出演:間宮祥太朗、桜井日奈子、恒松祐里、堀田真由etc

評価:80点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

今、口コミで大評判の作品『殺さない彼と死なない彼女』。『愛がなんだ』、『ホットギミック ガールミーツボーイ』に次ぐ、今年最高の恋愛映画として話題になっていた。原作は世紀末のTwitter発四コマ漫画。これをどうしたら傑作にできるのだろうか?『ももいろそらを』で注目された新鋭・小林啓一がどのように傑作に変えたのか確かめるべくシネクイントへ向かいました。というわけでネタバレありで本作について語っていきます。(後半のある展開についてネタバレしています)。

『殺さない彼と死なない彼女』あらすじ


SNS漫画家・世紀末によるTwitter発の人気コミックを、「帝一の國」の間宮祥太朗&「ママレード・ボーイ」の桜井日奈子のダブル主演で実写映画化。何にも興味が持てず退屈な日々を送る男子高校生・小坂れいは、教室で殺されたハチの死骸を埋めているクラスメイト・鹿野ななに遭遇する。ネガティブでリストカット常習犯だが虫の命は大切に扱う彼女に興味を抱く小坂。それまで周囲から変人扱いされていた鹿野だったが、小坂と本音で話すうちに、2人で一緒に過ごすことが当たり前になっていく。「逆光の頃」の小林啓一が監督・脚本を手がける。
映画.comより引用

全て説明台詞を肯定するパワープレイ

「説明台詞過多」

一般的に、映画において台詞でなんでも説明することはタブーとされている。しかし、特定の条件を満たすとそれは作家性として評価される。例えば、新海誠監督の場合、美し過ぎる景色の中で、思春期の少年少女が愛を語ることによって、エモーショナルな感情が増幅され感動に至る。そのプロセスを効果的に演出するため、台詞で感情を説明させている。また、大林宣彦の近年の作品は、ひたすらに一方的に言葉を投げつけあう演出によって、時空を歪め、平和を強調していく。どちらの監督も、批判を避ける為に言葉のドッヂボールという手法が用いられている。短いスパンで言葉を豪速球で投げ合う。相手の反応よりも、自分の感情を浄化する為に言葉を発するのです。

さて『殺さない彼と死なない彼女』も言葉のドッヂボールを使って、説明過多を映画の個性として落とし込んでいるわけだが、面白いことに新海誠、大林宣彦とは違いスローペースである。また語彙力も非常に乏しいのだ。留年し、厭世的になっている小坂れい、常に死にたいと思い学校の陰にいる鹿野なな。二人はヒョコんなことから惹かれあう。小坂は何かにつけて「殺すぞ」という。鹿野は「死にたい」と言う。しかし、二人とも《行動できない》人間だ。本当に殺すことも自殺することもできないのだ。彼と彼女が発する言葉の本質にある共通点を本能的に感じ取った二人は、一緒に帰ったり、アイスを食べたり、家でゲームをしたりする。しかし、ボキャブラリーが乏しいので遠目から見ると不毛な会話にしか見えないのだ。しかし、段々と「殺すぞ」、「死にたい」と言う言葉が愛あるものへと変わっていく。

そこへ、ホン・サンス的時空を超えたもう一つの会話劇を挟むことによって、深みが増していく。彼女の平行線に見える関係性の裏で、一方的に愛を注ぎ込むきゃぴ子とそれを見守る地味子の物語が始まる。きゃぴ子は八千代君に恋している。「好き」と手を替え品を替え告白するのだが、彼は邪険に扱う。彼にはかつて愛した女性に対する未練が残っているのだ。きゃぴ子はそんなことお構いなく告白していくうちに、自分が告白し、それを拒絶されるシークエンスに対して愛着を抱くようになる。結ばれたらこの関係性は壊れてしまうのではと思いつつ、今日も「好き」と発するのである。それを、学校のウォールフラワーである地味子は尊く見つめる。

小坂×鹿野の隠と隠の関係に対して明確な隠陽の関係を重ね合わせていく意外性にこの作品の個性が滲み出す。そして一見関係ない二つの話が物語のテーマにも繋がっている。終盤、小坂はYoutuberらしき人物に殺されてしまう。そしてそれによって二つの物語が融合する。実は後者のエピソードは小坂亡き後の世界だったのです。そして、きゃぴ子が失恋して土手でリストカットするところを鹿野が助けて映画は終わるのです。

陽から隠に堕ちようとした天使を、隠から少し陽に昇った堕天使が手を差し伸べるのです。小坂が「君が死んだら少し変われるよ」と放った言葉を、遂に鹿野は受け取り、亡き彼に返す。ドッヂボールではあるものの、少しキャッチボールになった行動へ結びつけ、過去・今に囚われうじうじしていた彼女が未来について目を向けようとする成長を表すのです。この緻密な、演出を肉づける為に、全て説明台詞で描くことは必要不可欠だった。

Youtuber造形に注目

さてもう一つ注目していただきたいのは、Youtuberの造形である。ブンブンは、CMや映画におけるYoutuber造形に五月蝿い。特に最近綾瀬はるかや新垣結衣にYoutuberをやらせる某CMに憤りを感じている。広告マンは全くYoutuberを理解しようとしていないし、そこには「こうするのがYoutuberでしょ」と土足で聖域に踏み入る無礼さを感じているのだ。映像コンテンツにYoutuberの要素を持ち込むには、しっかりモチーフとするYoutuberを定めて徹底研究すべきである。狂気は狂気でもどの狂気か見定める必要がある。本作はそれができていたように思える。劇中に登場する殺人鬼Youtuberのモデルは、明らかにラファエルとヒカルであろう。

ラファエルとヒカルは過激派Youtuberである。水曜日のダウンタウン以上に過激な企画をし、ギラギラとしている。例えば、縁日のクジ屋のクジを買い占めて店員が詐欺を働いていることを告発したりするのだ。明らかに危険な人だと分かっているのに、人々のゲスな感情を引き出し、思わず観てしまう雰囲気で視聴者やファンを集めている。

その雰囲気を、しっかりと映画に落とし込んでいるのです。ラファエルとヒカルを足して2で割ったキャラクターを見事に作り上げている。

惜しいところ

ただ、手放しに褒められない部分もあった。それはラストである。小坂が死亡し、そこから断片的にカットが破られるのだが、今まで比較的長回しで撮っていたのを何故ここで短く切り刻まなければならないのだろうか?絶望的な学園生活に光差す映画故、前半は断片的にし、後半から長回しにするのであれば納得いくのだが、いくら死にたいする喪失感があったとしてもそこでカットを切りまくるのに必要性を感じなかった。カットを切るのであれば、走馬灯のようにし小坂との思い出を反芻させた方がよかったのではと感じてしまいました。

最後に…

当初は観る予定なかったのですが、これは観て大正解でした。ブンブンの弱点であるパッヘルベルのカノンが劇中流れることを差し引いても、ホン・サンスばりに会話と会話の繋ぎだけで時空を超えて魅せ、ボキャブラリー乏しい中にある感情のゆらぎを捉えきる演出のうまさには脱帽しました。小林啓一だったら、万が一『からかい上手の高木さん』を実写化する事態になっても難なく傑作にすることができるでしょう。実に尊い、また観たい作品でありました。

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