映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ(2019)
監督:まんきゅう
ナレーション:井ノ原快彦、本上まなみ
評価:80点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
今、巷を賑わせている作品がある。それは『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』だ。《すみっコぐらし》とはサンエックスの人気キャラクターで日本キャラクター大賞2019でグランプリを受賞しています。ブンブンはサンリオよりもサンエックス派でにゃんにゃんにゃんこや最近だとリラックマが好きだ。そんなブンブンも最近のキャラクターにはついていけず、《すみっコぐらし》とは今回初対面した。イオンシネマ海老名20:15の回を観てきたのですが、平日にも拘らず多くのお客さんで賑わっており、驚いたことに大人の観客が圧倒的に多かったです。Twitterを読むと、ア○パンマンだと思ったら攻殻機動隊だったという不穏な感想が流れてきたが、これが大傑作でありました。というわけでネタバレありで語っていきます。
『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』あらすじ
「日本キャラクター大賞 2019」でグランプリを受賞したサンエックス株式会社の大人気キャラクター「すみっコぐらし」の劇場版アニメーション。すみっコを好む個性的なキャラクターたちが、不思議な絵本の中で繰り広げる大冒険を描く。ある日の午後、お気に入りの喫茶店「喫茶すみっコ」を訪れたすみっコたちが注文した料理を待っていると、地下室から謎の物音が聞こえてくる。音の正体を確かめに行ったすみっコたちは、そこで1冊の飛び出す絵本を発見する。絵本はボロボロでページの大事なところがなくなっており、桃太郎のお話のページには背景があるだけでおじいさんもおばあさんもいない。すると突然、大きな影が現れ、えびふらいのしっぽが絵本の中に吸い込まれてしまう。「アイドルマスター シンデレラガールズ劇場」のまんきゅうがメガホンをとり、「銀河銭湯パンタくん」の角田貴志が脚本、「がんばれ!ルルロロ」のファンワークスがアニメーション制作を担当。
※映画.comより引用
子ども映画から観るヌーヴェルヴァーグの精神
子ども映画は《新鮮さ》の金脈だ!
最近、私は強く思う。今や、スノビズムの象徴ともなってしまったヌーヴェルヴァーグ映画は元々、アメリカのB級映画や通俗映画の職人の技術を賞賛する動きであった。それによってアルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスが神格化された訳だ。その精神を現代に当てはめるとしたら、まさしく子ども映画がそれに該当するだろう。子ども映画は、アート映画が必死に演出し、ドヤ顔で強調する演出をいとも簡単にやってのける。
また別の例をみてみよう。『劇場版ミッフィー どうぶつえんで宝さがし』は、実に奇妙な作品である。動物が主役であるアニメであるミッフィーの長編映画なのだが、こともあろうことか動物園に行くというシュールな展開が待ち受ける。そしてそこには明確なヒエラルキーが存在し、犬のスナッフィーは犬ということで入園を断られたり、茶熊の園長が飼育しているのがホッキョクグマだったりする斜め上を行く展開が所狭しと並んでいるのだ。こういった自由さは、《常識》という鎧で盲目になってしまった大人がいかにして子どもの柔軟な発想、想像力に近づけるかといった挑戦として捉えることができます。元々アニメ版のミッフィーは、幼少期故に善悪も常識もないが故に生じるヒリヒリした物語を描いてきた背景がある。映画版も一貫して、大人になると忘れてしまう、《子どもの空っぽさ》とは何かという視点から面白さを見出そうとした哲学的な作品だったのだ。
どうでしょうか?ヌーヴェルヴァーグが昨今の演出を借用し、異次元の表現を見出すのと同じ匂いがしませんか?
さて、その系譜をいく作品が今回サンエックスから出現した。サンエックスは今年、Netflixオリジナルストップモーションアニメ『リラックマとカオルさん』を発表している。これは、リラックマの持つリラックスという要素を本質から捉えた結果、カオルさんという友だちなし、お金なし、社畜暮らしのOLから滲み出す深淵にリラックマの癒しを浸す驚きの物語が紡がれた。
『すみっコぐらし』の場合、ウォールフラワーとして生きる《すみっコ》たちの友情を、絵本の世界閉じ込められ話という王道エピソードに絡めて演出していた。今回、観賞して驚いたのは、《すみっコ》の前衛すぎるキャラクター像だ。とんかつやエビフライの端っこ、タピオカの残り、ホコリに雑草といった日常にある《すみっコ》をキャラクター化しているのだ。あまりに個性的すぎるキャラクター群を60分で映画にまとめなければならない。サンエックスは古くから動画を用いたキャラクター宣伝をしているのだが、それでも長編映画化は難しいと思われる。そこにヨーロッパ企画考案の脚本によって《絵本の世界閉じ込められ話》という王道エピソードが手を貸した。
《絵本の世界閉じ込められ話》は子ども向けアニメによくあるエピソード。この手のエピソードは『カードキャプターさくら』や『おねがいマイメロディ』のように『不思議の国のアリス』が媒体として使われがちだ。本の中の不思議な世界や、自由なようで自由ではない世界を表現するのにアリスは非常に使いやすいからだろう。しかし、本作の場合はそれを封印し、桃太郎、マッチ売りの少女、赤ずきん、人魚姫、アラビアンナイトをシャッフルして描いていく。こうすることで、飛び出す絵本もとい「《本》とは何か?」という疑問に答えるのだ。
本は、高々紙の積み上げだ。しかしながら、ページを繰ると別次元の物語が広がっている。すみっコたちは、飛び出す絵本のギミックや、紙の裂け目から別の話に移動することができる。そして、ネコが穴を掘れば、積み上げられた紙に断層が生じ、別ページにある物語が侵食しあってくる。紙とそこに書かれた物語の構造を多層的に描く、その演出はなかなか実写映画ではできないこともあり、アニメーションという表現でできうる本描写の限界点に到達できたと言えよう。
そして、本作は受動的/主体的の構図をも映画の中で描いている。本は、読むと物語が進む。そして読んだ物語とそれを受け取った人の感情が混じり合って、映画以上に自由に物語が脳裏に広がっていく。ただ、本は誰かに書かれたもの。読み手の自由な解釈と矛盾するように書き手のルールにある程度従う必要がある。すみっコたちは、桃太郎の世界にやってきて、自由気ままに動こうとする。しかし、天から降ってくるナレーションが強制的に物語の主軸へ軌道修正しようとするのだ。それが、物語が進んでいくうちに、物語のルールに従いながらも自分たちの意志で、世界を楽しめるようになる。ニセツムリはEDMらしき音楽に併せて祭を楽しむ。緑のペンギンは迷子のヒヨコの故郷を探しに縦横無尽に物語を駆け抜けるのだ。
もちろん、キャラクターの魅力を膨らませる描写のキレ味も保証されている。例えば、あかずきんの話に迷い込んだ、とんかつとエビフライは、狼の家にやってくる。当然ながら狼は彼らを捕食しようとするわけだが、彼らの夢は「食べられること」。とんかつの食べ残し、エビフライの食べ残しである彼らは、悪役である狼に食べられることを千載一遇のチャンスだと捉え、「食べて」と迫るのだ。そしてその圧で狼を撃退する。童話を捻る手法に、キャラクターの個性を結びつける高度な技を披露しているのです。
そして、本作の肝となるヒヨコの存在が、「《本》とは何か?」に答えていった本作に、鋭い一撃を与えた。ひよこの故郷を探し、旅する一行は、遂に『みにくいアヒルの子』こそが彼の居場所だと断定する。しかし、そこは彼の居場所ではなかった。彼は、絵本の最終ページの余白に書かれた落書きなのだ。なので、彼はどこにも所属していないことが判明する。そして本作は、安易に熱い友情を描くために、彼を絵本の外へ出すことはしない。本の中の世界は、本の外に出ることができないのだから。哀しい別れの後、すみっコたちがその悲劇に対して行うのは、ヒヨコしかいない空白に仲間を描いてあげること。家を作ってあげることだった。そしてカフェの奥に眠って死んでいた本を生き返らせることに成功し映画は終わるのだ。
どうでしょう?単なる子ども映画でしょうか?イロモノでしょうか?
確かに、すみっコ達が飛び回る話がちゃんと物語れていなかったりといった(特に『アラビアン・ナイト』は全く語れていない)問題はあれども、ここまで本の本質に迫れた映画はないでしょう。それも誰しもが本作を観ると、とんかつやタピオカ、雑草に根暗なネコへ愛着が湧く作りを維持しながら。これは今年最重要なアニメーションの一本でありました。
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