【カンヌ国際映画祭特集】『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』テリー・ギリアム25年の執念で作り上げた異色作

テリー・ギリアムのドン・キホーテ(2018)
The Man Who Killed Don Quixote

監督:テリー・ギリアム
出演:ジョナサン・プライス、アダム・ドライバー、オルガ・キュリレンコ、ステラン・スカルスガルドetc

評価:60点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

日本では公開未定なのですが、昨年のカンヌ国際映画祭を賑わせたテリー・ギリアム最新作『テリー・ギリアムのドン・キホーテ(The Man Who Killed Don Quixote)』を観ました。本作は、コメディグループ《モンティ・パイソン》の一人で『未来世紀ブラジル』、『バロン』などといったカルト映画を作る鬼才テリー・ギリアムが8度も映画化に失敗するものの、不屈の精神で25年の歳月をかけて作り上げた作品。当初、ドン・キホーテ役をジャン・ロシュフォール、サンチョ・パンサと勘違いされる男トビー役をジョニー・デップで製作されていたのだが、大雨による撮影機材の故障、そしてジャン・ロシュフォールが椎間板ヘルニアを患った事により製作は中止となった(詳しくは『ロスト・イン・ラマンチャ』をチェック)。それからもテリー・ギリアムは何度も映画化を試み、ロバート・デュヴァルやジョン・ハートがドン・キホーテ役を演じたが、結局お蔵入りとなってしまった。しかし、昨年ついに完成したのです。ただ、最後の最後まで困難は続き、元プロデューサーであるパウロ・ブランコが本作の権利を主張し、カンヌ国際映画祭での上映を妨害してきました。そんな紆余曲折を経たが、ようやくアメリカ、フランスで公開されました。フランスの映画データベースAllocineによると批評家の賛否が真っ二つに分かれており、Le Mondeは「映画との対話の喜びに満ち溢れた活気のある作品」と評している一方で、Libérationは「喜びなんかありません。映画と文学、歴史と小説、皮肉と運命などの連動だけが、大きな機械の中で空っぽに先走って、愚かさを生み出します。」と反論していたりします。さてそんな『ドン・キホーテを殺した男』はどんな作品なんでしょうか?

『テリー・ギリアムのドン・キホーテ(旧暫定邦題:ドン・キホーテを殺した男)』あらすじ


Toby, a disillusioned film director, becomes pulled into a world of time-jumping fantasy when a Spanish cobbler believes him to be Sancho Panza. He gradually becomes unable to tell dreams from reality.
訳:絶望した映画監督のトビーは、サンチョ・パンサであるとスペインの職人が信じた時、時を超えた幻想の世界に引き込まれます。彼は徐々に現実から夢を見分けることができなくなります。
imdbより引用

テリー・ギリアム版『8 1/2』

鬼才映画監督あるあるに「『8 1/2』的映画撮りがち」というのがある。コーエン兄弟は『バートン・フィンク』を撮り、アルノー・デプレシャンは『イスマエルの亡霊たち』を撮った。タランティーノは今回のカンヌ国際映画祭で『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』というハリウッド内幕ものを披露する。映画に取り憑かれた監督たちは、自分の観る幻影を形に残したくて仕方ないのだ。そしてテリー・ギリアムの場合、フランシス・フォード・コッポラが不屈の精神で『地獄の黙示録』を創り上げたのに憧れたのか、人生の全てをかけてドン・キホーテを軸にした映画監督の幻影を創り上げた。『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』では物足りない史劇の刺激的コメディへの探究心一本で作られているので、紆余曲折複雑怪奇になったプロジェクトではあるが空中分解を感じさせない軸のあるドラマになっている。まさしく、アダム・ドライバー演じるトビーにテリー・ギリアムの心が宿っているのです。

映画監督のトビーはドン・キホーテの撮影をしているが、なかなか上手くいかずにヤケになっている。ロケハンをしていると、町の人から「サンチョ・パンサ?」と訊かれる。「俺は違うぞ、映画監督だぞ」と思っているのだが、誤解されていく。しまいには警察のお世話になり、パトカーで輸送されるのだが、なんとパトカーの目の前にドン・キホーテが現れる。「おう!同志よ!一緒に旅に出ないか?」とドン・キホーテはパトカーを攻撃しながらトビーに迫り、共に旅を始める。もはや、トビーには現実も虚構も区別つかなくなり、ドン・キホーテの愉快な冒険がどんどんトビーを発狂させていく。アダム・ドライバーの終始ドン引きな顔が非常にコミカルで、これはジョニー・デップじゃなくてよかった、アダム・ドライバーの時代まで待ってよかったのではと思う。

ドン・キホーテと言えば、巨人だと思って猪突猛進ランスで突っ込んでいったら風車でしたというエピソードが有名ですが、まさしくテリー・ギリアムが『ドン・キホーテを殺した男』という巨人を追い回すうちに自分がドン・キホーテになってしまった姿を自己分析的に映画に落とし込み、テリー・ギリアムワールドの中でしっかり整合性持たせて映画化した点、意外と悪くないぞとは思った。しかし、ホドロフスキーが『DUNE』を完成させなかったのがある意味良かったのと同様、本作も未完のまま終わらせ、『幻に終わった傑作映画たち 映画史を変えたかもしれない作品は、何故完成しなかったのか?』に掲載されていた方が良かったのではとも思ってしまう。というのも、結局のところモンティ・パイソン映画や『未来世紀ブラジル』を撮っていたあの時代の驚きはこの作品から見出せず、テリー・ギリアムの枠に囚われたままの作品に見えてしまったからだ。型破り、全魂を集中させて作ったという設定は、どうしても『地獄の黙示録』と比較してしまうところがあり、あのトチ狂った世界観がないとなるとちょっとがっかりしてしまうところがあります。まあ、それはテリー・ギリアムが独裁者ではなかったということなんだろう。限られた制約の中で、いかに作り上げていくのか、極めてまともで落ち着いた状態で作られていたんだなと感じました。

日本公開は2020年1月24日から東京・日比谷のTOHOシネマズシャンテほか全国で公開。

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