【ネタバレ解説】『イメージの本』ゴダール版『レディ・プレイヤー1』に何思う?

イメージの本(2018)
Le livre d’image

監督:ジャン=リュック・ゴダール

評価:採点不能

おはようございます、チェ・ブンブンです。

昨年のカンヌ国際映画祭で、パルムドールを超える最高賞スペシャル・パルムドールを受賞し、ある意味三冠王となったゴダール。昨年の審査員の決断は英断で、単純にパルムドールを与えると「スノッブめ」と言われるところを、貧困お涙頂戴な勝てる映画『万引き家族』にパルムドールを譲ったのはなかなか上手いなと感心してしまった。

そんな問題のゴダールのLe livre d’images(=絵本)こと『イメージの本』は、流石GOD ARTのゴダール先生。一時期ロッテントマトの一般観客支持率0%(2019/04/21時点では33%までに回復)を獲得しました。そんなゴダール新作を観てきました。

東京だと予約ができないシネスイッチ銀座のみでの公開。11:00の初回こそ空いていましたが、2回目以降は結構混んでいたそうですよ。

『イメージの本』あらすじ


ヌーベルバーグの巨匠ジャン=リュック・ゴダールが、暴力・戦争・不和に満ちた世界への怒りを、様々な絵画・映画・文章・音楽で表現した作品。過去人類がたどってきたアーカイブの断片を中心に、新たに撮り下ろした子どもたちや美しい海辺などの映像を交えながら、ゴダール特有のビビッドな色彩で巧みにコラージュ。5章で構成され、ゴダール自らがナレーションを担当した。2018年・第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、特別に設けられた「スペシャル・パルムドール」を受賞した。
※映画.comより引用

ゴダール版『レディ・プレイヤー1』に何思う?

本作は、シネフィルの為の『レディ・プレイヤー1』です。無数に散りばめられた映画のカケラによる洪水。正直全くもって訳がわからない。あの蓮實重彦ですらお手上げだったそうなのだから仕方がない。しかし、その洪水に身を任せ、流されることで興奮が得られることは確かだ。

例えば、サメ映画クラスタが観れば、一瞬だけ挿入される『ジョーズ』から、『デビルシャーク』における刹那なサメ描写の切なさを論じているのではと思わず憶測してしまうだろう。シネフィルならまるで俺らの『レディ・プレイヤー1』はここにある!と『キッスで殺せ!』、『大砂塵』、『霧の中の風景』といった作品の残像にいちいち興奮するだろう。観るものそれぞれが、映像の洪水から自分だけの物語を生み出していく。まさしく、本作が序盤から執拗に豪語する《REMAKE》とはこのことだと分かるのです。

ゴダールは、ゴーギャンの絵を提示する。ゴーギャンとはポスト印象主義の画家だ。ポスト印象主義とは、目の前の風景をそのまま捉える写真に色彩を与えようとした印象派に対して、写真にはできないドラマ性を印象派が持つ色彩美を援用して生み出そうとしたムーブメントだ。映画も、絵画や写真がなし得ることのできなかったアクションを捉えようとして生まれた。ゴダールは、絵画と映画を交互に魅せることで、映画史を表現しようとしている。そして、その歴史の過程を通じて、結局アートというのは何かのREMAKEでしかないことを語るのだ。

ゴダールの悟り

ゴダールは引用することでしか映画を作れない自分を恨み、イーストウッドやスピルバーグに嫉妬していました。そんな彼は後期になると、嫉妬するのを止め、開き直りました。結局、何をしても《REMAKE》なんだと。彼は、無数の内なるアーカイブをDJのようにサンプリングする技術を身につけ、またゴダールという名のブランドを確立させました。恐らく、他の監督が撮っても許されない作品でしょう。プルーストは『失われた時を求めて』で、究極の芸術は森羅万象足しあわせても、その先にあるものだと語っていましたが、まさしく『イメージの本』は他の監督が行き着けない場所へ我々を導いてくれました。

『百年の孤独』的視点から映画をアーカイブする

本作は、インスタ映えを狙いすぎて映画素材の味を壊してしまったかのような引用ヴィジュアルが散見されます。シネフィルですら、一瞬、「これって『霧の中の風景』のワンシーンだよな…」と目の前に提示された雰囲気がガラリと変わった世界に戸惑いながら自己に取り込む。ただ、本作は最低限、フィルムならフィルム、デジタルならデジタルと素材の物理的要素は壊さぬようにしている。そしてフィルムとデジタルの狭間のバグった世界を魅せてくる。

これにはガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』的視点を感じました。『百年の孤独』とは、数世代に渡り文明が反映し、そして滅亡し、土地が廃墟になるまでの過程を描いた小説です。この小説では、終盤、風化した土地を強調するために、架空の文献からその土地の歴史を感じるという場面が挿入されます。歴史というのは1秒単位で時を刻んでいくものだが、人間が歴史を語る時、莫大な時間の一部を借りて解釈するしかない。多くのものは失われるし、歴史をある程度のスパンで捉えた時に、時間の揺らぎが発生する。例えば、古代文明の遺跡が見つかったとしよう。何年前の何月何日に作られたものかは誰にも分かりません。先端技術をしようしても、大体1,000年前というようにしか時代を特定することができない。

『イメージの本』は、100年後、1,000年後に本作が出土され、歴史学の観点から観た時に何が残るのかという視点で考察がされている。いつに作られた映画なのかはもはやわからなくなり、映画は入り乱れる。今の新作であっても、未来からすれば旧作に過ぎない。

そしてリュミエール兄弟が撮った映画史初期の作品『ラ・シオタ駅への列車の到着』とYoutubeから引っ張り出した少女が列車の到着を歓喜するシーンを対比させることで、もはや未来からすると映画監督なんて概念は消失し、誰が撮ろうとも映画になり得るのでは?とゴダールは自問自答するのです。結局のところ、映画というのは遠い未来からみた時に、「フィルムというものを使って撮っていた」、「人々が情報に出会うためのメディア」、「報道の側面と娯楽の側面があった」といった断片的文化の咀嚼しかできないという結論に至ったといえよう。

では、これはゴダールの厭世的な作品なのか?映画に未来はないと謳っている作品なのか?ブンブンは、そうは思わない。かつて、ゴダールは『中国女』でキャプテン・アメリカを引用し、コミックにおける政治性を映画に取り込んだ。『キャプテン・アメリカ/ザ・ウィンター・ソルジャー』が登場する約半世紀前に、映画×コミック×政治という組み合わせの登場を予言していた。未来を感じ取ろうとしていた。ゴダールは、本作でスマホ時代、誰しも目の前の小さなモノリスを通じて映像を作れ、誰もが簡単に編集し、誰もが簡単に膨大な情報のアーカイブから必要なものを入手したりできる時代。映画が特殊技能を持った人しかできない魔法のような存在から失墜した時代の先で、何をすればNEW MEDIAとなり得るのかと考えた際に、徹底的にREMAKEについて語ることだ。自分のやってきたことは間違いではなかったとゴダールは自己肯定したのではないだろうか?

正直、ゴダールの観る走馬灯は全くもって理解できなかった。対位法や映画の中の列車の動きとイスラム世界がなんで関係あるのかは、分からないし正直1%も理解できていない。『2001年宇宙の旅』における木星の果てのスターゲイトに取り込まれたかのように呆然とした。しかしながら、圧倒的未来に惹き込まれ、心踊らされました。これは凄い!2019年最強の映画の一本であることは間違いありません。

引用作品リスト(一部)

ここで、『イメージの本』が引用した映画作品の一覧を一部掲載します。実は、シネスイッチ銀座で800円で販売されているパンフレットには引用作品を作成者のわかる範囲でリスト化されています。もし、もっと知りたい方がいましたら、是非パンフレットを買いましょう!これ作った人に感謝です。

スティーヴン・スピルバーグ『ジョーズ』
アルフレッド・ヒッチコック『めまい』
ジャック・ロジエ『ブルー・ジーンズ』
ジャン=リュック・ゴダール『はなればなれに』
アスガー・ファルファディ『彼女が消えた浜辺』
マイケル・ベイ『13時間 ベンガジの秘密の兵士』
ジャン・コクトー『美女と野獣』
セルゲイ・パラジャーノフ『ざくろの色』
アレクサンドル・ソクーロフ『エルミタージュ幻想』
アブデラマン・シサコ『禁じられた歌声』
ニコラス・レイ『大砂塵』
ロバート・アルドリッチ『キッスで殺せ!』
トッド・ブラウニング『フリークス』
ルイ・フイヤード『ファントマ』
ロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』
etc…

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