【新文芸坐シネマテーク】『お家に帰りたい』オタクのマウント文化に厄介映画の巨匠アラン・レネがメスを入れる!

お家に帰りたい(1989)
I Want to Go Home

監督:アラン・レネ
出演:アドルフ・グリーン、リンダ・ラビン、ローラ・ベンソン、ジェラール・ドパルデューetc

評価:90点

定期的に開催される映画評論家・大寺眞輔講義つき上映・新文芸坐シネマテーク。次回のテーマがアラン・レネときました。アラン・レネといえば、『去年マリエンバートで』や『二十四時間の情事』などといった記憶を巡る難解厄介な映画を作る監督として有名だ。新文芸坐シネマテークでは毎回激レア重要作を上映するので、てっきり『羅生門』の再解釈映画である『プロビデンス』とか公開当時フランスの映画評論家たちがこぞって言及した『ミュリエル』あたりを上映するのかと思いきや、斜め上をいくラインナップとなっていました。

4/19(金)『人生は小説なり』
4/26(金)『お家に帰りたい』
5/10(金)『あなたはまだ何も見ていない』
5/17(金)『六つの心』

王道な『六つの心』は順当だとしても、ハードコアシネフィルですらほとんど観ている人のいない『あなたはまだ何も見ていない』を上映するというのだ。この作品はフランス留学中、ブンブンは図書館で借りて観たのですが、後期アラン・レネ特有の露骨な演劇的表現を映画という媒体で魅せることによって人間の内面を掘り起こそうとする面倒臭い作品で正直よく分からなかった記憶があります。大寺さんのことだから、似たような試みをしているベルイマンの『リハーサルの後で』と比較解説してくれるのではと密かに思っています。

さて、そんな中、ブンブン研究所(本棚)から『お家に帰りたい』が出土したので、観てみました。そうしたら、意外や意外、めちゃくちゃ面白かったのです。アラン・レネというと『去年マリエンバートで』あたりから観る人がほとんどだと思うのですが、日本人こそアラン・レネ入門として『お家に帰りたい』から観た方がいいのではと感じました。ここ数年、映画のオフ会等に参加してブンブンが感じている壁の正体も分かった作品なので、紹介していきます。

『お家に帰りたい』あらすじ

Joey Wellman, a cantankerous American cartoonist, accepts an invitation to come to an exhibition in Paris, because his estranged daughter Elsie is a student there.
ブンブン訳:ジョーイ・ウェルマンはアメリカの漫画家。疎遠になった娘のエルジーが学生をしていることもありパリの展覧会に招待される…

アラン・レネが親友スタン・リーに送ったラブ・レター

実はこの映画は、マーベル映画ファンは、特にスタン・リーのファン必見の作品です。意外かもしれないのだが、難解映画の巨匠アラン・レネとマーベルの創造神スタン・リーは親友同士でありました。そして、アラン・レネはアメリカ滞在中にスタン・リーの家に滞在していたのです。そう、この映画はアラン・レネのアメリカ滞在を描いた半自伝的作品なのです。アラン・レネがアメリカに来て、スタン・リーに憧れと嫉妬を抱いたことに対する反省を、アメリカ人がフランスに来るという真逆の設定で語り直しているのです。そして、この映画はチクチクとオタクの心を突いてくる作品となっています。

ズバリ、この映画のテーマを言いましょう。それは「オタクのマウント」だ。主人公の漫画家ジョーイ・ウェルマンはフランスのコミコン(厳密にはエキスポ)に招待されて、はるばるパリにやってくるのだが、飛行機の中の時点で「お家に帰りたい」と言っている。彼にとって、フランスは敵なのだ。英語は話してくれないし、コミコンに行けばフランスかぶれの連中が「こんな展覧会は苦痛だね、アメリカの文化は死に絶えた」と言いだし、社会派、風刺漫画家のアル・キャップやロバート・クラム、アート・スピーゲルマンが相次いで今回のコミコン参加を辞退したことを棚に上げ、MARVEL等のコミックを通俗だと批判する。自分は、社会問題を風刺しているはずなのに、通俗な漫画家として呼ばれているのかと居心地が悪くなってくる。しかし、彼が、漫画批評から逃れることはできない。彼が歩けば、必ずマウント合戦に巻き込まれる。脳内も、ミッキーやスヌーピー、自分が生み出した猫のキャラクターが自己批判のように声をかけてくる。ディズニーは経営の本質でありそこに社会批判はないのか?突然、フランス人に漫画を描いて欲しいと頼まれた時、どういったタッチで絵を描いたらいいのか?専門外なのにポパイなんて描けるのか?といった質問や不安が怒涛のように押し寄せてくる。それをアドルフ・グリーン演じるジョーイが『おそ松くん』におけるイヤミのように、ニカッと歯を見せながら自分をできるだけ大きく見せようと振る舞い続け、どんどん疲弊していくのだ。シェーと自分の本当の腕前を見せればいいものの、それができない。その様子が100分コミカルに展開されていく。

これは恐らく、アラン・レネのコンプレックスが120%投影された作品なんだろう。ゴダールが『中国女』でしれっとキャプテン・アメリカを引用したり、アラン・ジェシュアがコミック的表現を露骨に作品にトレースした『コミック・ストリップ・ヒーロー』でカンヌ国際映画祭脚本賞をあっさり獲ってしまうようなことはできない。MARVELやDCが子ども騙しの通俗なものであり、フランスのカリカチュア(風刺漫画)を知っている自分には受け入れがたい。でもそれってただのマウントだよねと自己批判的にこの作品を撮ったと考えることができるのです。

結局、漫画は漫画に過ぎない訳で、漫画に高尚も通俗もない。評論家が「漫画には哲学がある」と書いた瞬間、その漫画はMARVELだろうがシャルリー・エブドの風刺画だろうがアートになる。一般人がゲラゲラと漫画を読むと、それは俗物になる。でも、結局は漫画は漫画に過ぎない。人々が他の領域を見下す為に勝手に境界を引いているに過ぎないのでは?とアラン・レネは軽妙な語り口で語ってみせるのです。

最近、映画のオフ会は息苦しさを感じてしまい、あまり行かなくなってしまったのもこういった境界線による無意識のマウント合戦に疲弊してしまったからだと気づかされました。と同時に、映画オタクとして、この映画の世界の人々のように、境界外にいる人々を叩くツールとして娯楽を使用しないようにしなくてはと思わせられました。アニメ大国、オタク大国日本に住む者に強烈に刺さる映画なので、是非興味持ちましたら、4/26(金)新文芸坐の上映に行ってみてください。


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