【第37回東京国際映画祭】『キル・ザ・ジョッキー』役割を殺すための異性

キル・ザ・ジョッキー(2024)
原題:El Jockey
英題:Kill the Jockey

監督:ルイス・オルテガ
出演:ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート、ウルスラ・コルベロ、ダニエル・ヒメネス・カチョetc

評価:75点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

第37回東京国際映画祭ワールド・フォーカス部門にて上映の『キル・ザ・ジョッキー』を観た。ここ数年、アルゼンチン映画の躍進が凄まじく、世界の映画祭を席巻させている。一方で、アルゼンチン政治によりこの状況は淵に立たされている。国際的評価に対して本国の政治が歩み寄るとは限らない例となっている。そんな複雑な中、本作を観たのだが、これが素晴らしい作品であった。アキ・カウリスマキやウェス・アンダーソンに近いタッチで荒唐無稽なことをやりながら、テーマは深刻。そのバランス感覚の鋭さに惹き込まれた。

『キル・ザ・ジョッキー』あらすじ

レモ・マンフレディーニは伝説的な騎手だったが、その生活は破綻し、ガールフレンドのアブリルとの関係も危うくなっている。ある重要なレースの途中、レモは脳震盪を起こし、病院に担ぎ込まれる。病院を抜け出し、女装してブエノスアイレスの街をさまようレモは、これまで背負っていたアイデンティティから解放される。だが、レモに大金を賭け、その儲けで彼の借金を棒引きにしようとしていたギャングのシレーナは、手下たちにレモの行方を探させる。アキ・カウリスマキの撮影監督として知られるティモ・サルミネンの撮影が素晴らしい。終始無表情なレモもカウリスマキ作品の登場人物のようである。ヴェネチア映画祭コンペティションで上映。

※第37回東京国際映画祭より引用

役割を殺すための異性

伝説的ジョッキーのレモは、ジョッキーを引退したいと考えているようだ。しかし、逃げられない。逃げたらマネージャー軍団に捕まってしまうのだ。再び、レース会場へと連れ戻される。渾身の一手として、馬用の麻酔を酒に混ぜて飲み、酩酊状態で怪我を負うも、健康体なため回復が早い。

そんなある日、日本からミシマと呼ばれる馬が届き、これでレースに出場することとなる。この新しい馬でレースに出たところ、馬が暴走し今度こその大怪我を負う。千載一遇のチャンスと捉え、彼は病室にあった毛皮のコートを纏い、女として町中逃げ回る。

役割を与えられたものはそう簡単に役割を降りることができない。破壊的衝動を露わにしても、社会から求められれば連れ戻される。他者からの眼差しを回避するためにレモは「女性」になろうとするのだ。

現代思想の論考で「ファッションはグロい」といったものを以前読んだ。人間は、他者からの眼差しから逃れられず、ファッションというゲームへ強制参加させられる。イケメンだったり社会的名誉ある者もまた、社会から求められるファッションを強制的に着させられそれ相応の振る舞いを強いられる。

だからこそレモは毛皮のコートを着る、化粧をし、匿名の誰かになることによってファッションというゲームから降りようとする。現段階で「女性になる」表象が適切かどうかは保留にしたい。分かりやすい他者として「女性」が選択され、女性特有の痛みまでもは引き受けていないように思える本作の表象がこれで良いのかは検討したいからだ。

しかしながら、ファッションと眼差しとの関係性を荒唐無稽に理論的に紐解くこのアプローチは注目に値するだろう。非常に観やすい作品でもあるため、日本公開に期待である。