けもの(2023)
La Bête
監督:ベルトラン・ボネロ
出演:レア・セドゥ、ジョージ・マッケイ、ダーシャ・ネクラソワ、ジュリア・フォールetc
評価:90点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
横浜フランス映画祭2024でベルトラン・ボネロの問題作『けもの』が上映された。本作はメインキャストにギャスパー・ウリエルが配役されていたのだが亡くなってしまいジョージ・マッケイに変更となった背景のほか、ヴェネツィア国際映画祭で上映された際にエンドロールがQRコードであることからも話題となった。昨今、エンドロールが10分近くかかることが増えているがこれは映画製作に関わる人たちが勝ち取った権利でもある。一方で、現代はタイパの時代。多くの観客にとって、本音は不要だと思っているのではないだろうか?エンドロールを観たい人だけがアクセスできればいいのではと映画は問題提起する。とはいえ、いくらタイパの時代でも観客に届かなければ情報の価値は無に等しい。YouTubeの広告対策で広告を16倍速で飛ばすアプリが広告主にとって害悪なものであるように。我々は「タイパ」を前に倫理的問題と直面しているわけだが、この挑発的なエンドロールは映画のテーマのひとつでもある「技術やシステムに人類が取り込まれる中で、ドライさをどこまで許容できるか」に通じるといえる。
さて、そんなことを考えながら映画を観たのだが「そう簡単に考察やらを許して理解した気にさせてたまるか」といった強い意志を感じた作品であった。
なお、本作は視覚聴覚的映画なのでネタバレもないと思っているのだが、割と核心的なところに迫っているので読む際はご注意ください。
『けもの』あらすじ
人工知能が生活を取りまく近未来、人間の感情は脅威とみなされる。感情を取り除くため、ガブリエルは過去に戻り、DNAを浄化することに。そこで、かつて心から愛したルイと再会する。しかし、ガブリエルは、悲劇が起こる予感と恐怖に襲われる・・・。
※横浜フランス映画祭2024より引用
生成AIによって融解した境界の中で我思う故に我あり
グリーンバックの中、レア・セドゥ演じる俳優はシチュエーションを伝えられる。部屋の中に侵入者が現れるので、ナイフを持って防御する設定。どうやらサスペンス映画をCGで演出するらしい。突然、目の前に緑の机とナイフが現れる。つんざくような音がフレーム外から彼女へと揺さぶりをかけ、やがて絶叫にいたる。しかし、なぜか画面はドロっと横に融解し、タイトルが表示される。
かと思えば、舞台は20世紀初頭のパリ、1910年にパリが洪水で沈む直前へと移る。ここにもレア・セドゥが登場し、オペラ「蝶々夫人」の話などをしながら誰かを探しているのだが、やがてそのターゲットとなる男ルイ(ジョージ・マッケイ)と出会う。お互いに「なにか」が起こることを知っているのだが、それを胸に秘めた状態で退廃的な空間に身を置き束の間の恋を交える。
映画は突然、未来へと移り、この交わりようのない時間軸と世界観について説明される。2025年に「なにか」が発生し、世界は激変した。2044年の世界では、AIが労働の多くを担い、人類に感情の抑制を強いるようになる。その感情の抑制方法として、生成AIによって生み出された「過去」と対峙し、自分の内面にあるトラウマの起源と触れる。それにより、感情を浄化し、AI同様のドライな感情を植え付けるものであった。レア・セドゥ演じるガブリエルは、感情を失う人類、そして単純労働へと追い込まれる人類を悲観する。そして「浄化」に抵抗しようとするのである。
映画のルールが説明された上で、本題にシフトするわけだがこれが一筋縄ではいかない。確かに、ベルトラン・ボネロ監督はジャンル映画をトリッキーな形で描いていく側面があり、『ZOMBIE CHILD』ではゾンビ映画でありながら『私はゾンビと歩いた!』路線、つまりカリブゾンビものを手がけていた。それを知った状態であっても、今回のジャンル映画外し、もといジャンル横断の応酬にはとっつきにくさがある。
なぜならば、あまりにもやりたい放題、どこかの映画で観たモチーフが引用されるからだ。屋敷でハトが暴れる展開はヒッチコック『鳥』であり、スプリット・スクリーンによるサスペンス描写はブライアン・デ・パルマに見せかけて『絞殺魔』をやっているように見える。かと思えば『インセプション』を思わせる心象世界演出としての水描写があったり、『TENET』で聞いたようなセリフが発せられる。そもそも、映画自体がもし、ジャパニーズアニメだったらカルト的人気を博しただろう。そうと考えると今敏のヴィジュアルがチラつく。終盤では、ミヒャエル・ハネケのような陰惨さが露呈する。映画を観ている人ほどノイズが多くて、それに振り回されるのだ。まさしく、生成AIによって生み出された「〜風」の作風に興奮しているインフルエンサーに近い感覚となり、ボネロ監督の手のひらで踊らされる。
だが、その引用の応酬から一歩、離れてみてみると違った景色が見えてきて、そこで唱えられる理論こそが本作の面白さだったりする。
これを語る上で重要な問いとして「ルイは誰なのか?」と投げかけたい。
単なる恋人なのだろうか?
個人的に「自己の分身」なのではと感じた。理由は以下の二つである。
1.2014年パートにて、大地震があった後に、ストーカーミソジニー野郎として存在するルイをガブリエルが家に入れてしまう。そしてセックスをするのだが、別人に入れ替わる。
2.自己同一性について研究していたカントに関する論を唱えようとしている場面がある。
ひとつ目についてだが、あれだけ相思相愛な関係であったルイが、突如、敵として現れる奇妙な章が存在する。Vlogとして弱者男性である自分への想い、そして自己のミソジニーについて吐露しガブリエルを追い回す。彼女は、その追跡について認知していないのだが大地震をきっかけに出会い、家に招いてしまう。不安感情の高まりからセックスをするのだが、よくよく顔を見ると、見窄らしいおっさんであり彼女は絶叫するのである。無意識レベルに愛した人と愛撫していたつもりが、トラウマの原因となる人物と交わっていたのである。これにより、ルイは「ルイの姿をしたなにか」であることが分かる。では「ルイ」とはなにかを考える際に、自分の内面が生み出した他者と定義するとしっくりくるだろう。我々も、悩み事をする時、自分の中に他者を置き、議論をするだろう。夢では、無意識に存在する欲望をそこに現れる人物によって具体化されるだろう。
この仮説を裏付ける要素として、劇中で哲学者カントの理論を引用する場面がある。具体的なことは忘れてしまったが、カントは自己同一性を研究していた人である。ポール・リクール「他者のような自己自身」にて、解説されている。カントは自己同一性を「量」と「質」に分類し、互いに還元しないと語っている。例えば、ガブリエルが「私」と言ったとする。「私」という単語自体は複数の人物を指し示すが、この場合において「私」はガブリエルだけを指す。「私」という単語自体が持つ複数(=量)と「私」とガブリエルが結びついた状態(=質)に分かれているのである。しかし、リクールの解説によればそれらは全く相容れないのではなく、類似的なものとして交わる。それが実現される要素として「時間」における連続性があるとのこと。
この理論を整理して考えると、ガブリエルは装置によって過去を彷徨う。現実において実存の危機に陥っている彼女は、AIによる強要もあり過去における自分と対峙せざる得ない。過去と対話する際に、自己の代理として登場するのが、ガブリエルの思考と同じく「なにか」を待っているルイである。彼との対話を通じて、自己を再同定し、疑惑や異論を生じさせて、折り合いをつけようとするのである。この折り合いはAIの定義する「浄化」と白黒つけ難い状況下で自分の中の落とし所を見つける人間的なものの二つに分かれ、その宙吊りを我々は見守っているといえるのだ。
また、本作では面白いアイテムとして「人形」があり、時間旅行を通じ人類史を結びつけことでもうひとつの論を展開する。それは人類は進化の過程で、自らのありたいを実現するために整形手術を開発したが、その終焉ではまるで大量生産されるセルロイドの人形のように空っぽな存在になってしまうのではと。これも踏まえると、一見ジャンプスケア多めの映画ファンホイホイ鬱映画にみえて、「自己とはなにか?」を探求する興味深い冒険だったといえよう。