『溶岩の家』ペドロ・コスタ、キャリアの軸となる傑作

溶岩の家(1994)
CASA DE LAVA

監督:ペドロ・コスタ
出演:イネス・デ・メディロス、イザック・ド・バンコレ、エディット・スコブ、ペドロ・エストネスetc

評価:95点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

最近、引越しを視野に入れて自宅のものを整理している。配信の時代、なんだかんだいって大抵の作品は入手できるので、集めていた貴重なDVDをメルカリに大量放出している。観ていない作品もあえて出品することで、観る動機を与えるだろうと思い、ペドロ・コスタ初期DVD-BOXを出品したのだが、25,000円と強気価格にもかかわらず秒で売れた。『溶岩の家』だけ観ていなかったので急遽観ることにしたのだが、これが大傑作であった。

『溶岩の家』あらすじ

救急病棟の看護婦マリアンナは、工事現場で倒れ昏睡状態に陥った青年レオンに付き添って彼の故郷であるカーボヴェルデ島へと渡る。やがて彼女は島と人々の悲劇的な歴史の一端に遭遇する。ロッセリーニやジャック・ターナーの記憶、コンラッド的なシナリオ、ドキュメンタリー的な荒々しい色彩の映像が混然一体となった作品で、監督本人の言葉によると「破綻した冒険映画」。

※アテネフランセより引用

ペドロ・コスタ、キャリアの軸となる傑作

ペドロ・コスタといえば、『ヴィタリナ』や『ヴァンダの部屋』などといった、暗い画のイメージが強い。本作はこれらと打って変わって明るい画の中で描かれており対照的だ。特に『ヴィタリナ』とは蝶番のような関係性にあるといえる。カーボヴェルデからポルトガルへ渡り、霊的存在に触れる話が『ヴィタリナ』とすれば、こちらはカーボヴェルデへ向かっていく作品となっているからだ。意識悲鳴の男を連れてカーボヴェルデへ渡った看護師、しかし現地民はどうやら彼女のことを知っているようで、対話を通じて土地の歴史と向き合い、それは彼女自身の内面へと迫っていくことへ繋がる。ペドロ・コスタといえば「霊的存在」の表象に特化した監督だが、抽象的な「霊的存在」を具体的に落とし込むギミックとして《廃墟》がある。彼の作品において建物の空間はどこか開けている。窓が割れていたり、扉が開きっぱなしになっており、自由に侵入することができる。そして、その多くはもはや人の住むことのできないような《廃墟》の感触を担っている。《廃墟》へ行くと、どこか不思議な気分になる。誰かの存在を感じるからだ。その本質は、かつて箱として閉じていた空間。アクセスできないような空間が、その所有者の不在によって開かれたものとなる。そこへ足を踏み入れる。空間の端々にある、存在の証を拾い集めることで、その歴史へと、個人の物語にアクセスできることにあるといえる。『ヴァンダの部屋』では確かに人は住んでいる。だが、自由に出入りが行われ部屋として機能していない場から《廃墟》を想起させ、我々が脳裏で人々の物語を紡ぐ過程を映像として具現化していると捉えることはできないだろうか?

閑話休題、『溶岩の家』に戻ると、近年の作品よりは《廃墟》の印象は少ない。しかし、開かれた病院、開かれた部屋、剥き出しの階段を対話の場所に選んでいる。開かれた空間を通じて彼女は歴史へアクセスしている。これはペドロ・コスタ映画における《廃墟》論を語る上で重要な観点だろう。そして、この原石をピカピカにする研磨剤として冒頭の火山(=死の予兆)、音楽(=聴覚を通じた土地へのアクセス媒体)が用いられているのも印象深い。

最後に、本作ではバキバキに決まったショットが多い。個人的に、患者が復活し、人の気配がないような謎の場所で看護師と対話する場面が気に入った。剥き出しの空間パーツが集中線のように、横を向く患者のアップへ向かう。その横で、数メートル離れた場所にいる看護師が眼差しを向ける。赤い服(陽)と黒人(陰)の対比の妙もあり、素晴らしい場面であった。こういうショットを日常で見つけられたら私は幸せだなと思ったのであった。