『ゴダールの決別』You go c’est la vie

ゴダールの決別(1993)
HELAS POUR MOI

監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:ジェラール・ドパルデュー、ロランス・マスリア、ベルナール・ヴェルレー、ジャン=ルイ・ロカ、フランソワ・ガーマン、ジャン=ピエール・ミケルetc

評価:70点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

ジャン=リュック・ゴダール追悼ということでアマプラにて『ゴダールの決別』を観た。『ゴダールの探偵』以上に読み解く取っ掛かりを掴みにくい作品ではあったが、画は相変わらずカッコよかった。

『ゴダールの決別』あらすじ

アブラハム・クリムト(ベルナール・ヴェルレー)が「ある出来事」の調査にレマン湖のほとりの町にやってくる。彼はシモン・ドナデュー(ジェラール・ドパルデュー)とその妻ラシェル(ローランス・マスリア)の居所を探し、人々に物語を買いに来たと述べる。その頃、ラシェルはモノ牧師(フランソワ・ジェルモン)に5日前、肉体のもろさを知ったと言い、寝た相手が夫か神か分からなかったと訴える。

映画.comより引用

You go c’est la vie

夫に神が憑依する話と聞いた時、これはゴダールの形而学入門かなと思った。形のない存在を通じて人間の本質に迫る。では形のない存在をどのように映画に描くのか?それは憑依だとゴダールは語りたいのだろうか?実際に観てみると、神の表象の前に「運動」があり、断片的な会話が、その側面を透明で認知しにくいものへと変容させていた。確かに、よくよく観察すればエンジニアがメンテナンスする車の後ろでタイヤの外れた修理中なのか廃車なのか分からない赤き車からはアリストテレスの「可能態(デュナミス)」の表象を感じ取れる。エンジニアの手によって新車同様の存在にもなれるし、または廃車として処理されてしまうかもしれない。しかしまだ状態が不定である。これをエンジニアの運動と、静止した赤き車の対比で表す。それも一つの画で表現する。

だが、この画以上に静止した人々の横を大きな船が移動し、カメラがそれを追う。カメラに向かって歩いていく人の後をついて行くように船が迫ってくる運動のインパクトに圧倒され、その議論が目の前を素通りしていくように見える。そして気がついたら映画は終わっている。では、この映画は何を語っているのだろうか?例のごとく、ゴダールのダジャレにヒントが隠されている。彼はユーゴスラヴィア(Yougoslavie)には人生(la vie)と子ども(gosse)があると語っている。この補助線を少し拡大解釈してみる。YougoslavieはYou go c’est la vie(あなたは行く、それが人生)と変換できるのではないか?

このような仮説を立てた際に、本作は過ぎ去って行く者の物語と言える。男は去る。神も去る。歴史とは過ぎ去りし事実を繋げて物語ることだ。映画も同様、過ぎ去りし事象を繋げることで物語ることが可能となる。つまり、映画は「go(行く)」運動を捉えるものであると。だからこそ、本作は『ラ・シオタ駅への列車の到着』のように迫り来るイベントを待つ。そして、去り行く列車(=イベント)に石を投じることで歴史を捉えようとしているのだ。

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