【ネタバレ考察】『バッドガイズ』与えられたカードで勝負するしかないんだ。

バッドガイズ(2022)
The Bad Guys

監督:ピエール・ペリフィル
出演:サム・ロックウェル、オークワフィナ、アンソニー・ラモス、マーク・マロン、クレイグ・ロビンソンetc

評価:95点

 

おはようございます、チェ・ブンブンです。

Twitterで参考にしている方が次々と、『バッドガイズ』は面白いと絶賛しているので観に行った。こういうのは積極的に乗るべきだと考えているのだが、お見事。大傑作であった。しかも、想像以上に収穫が多い作品である。『ズートピア』で扱われたテーマの掘り下げと『スパイダーマン:スパイダーバース』における異なるタッチの共存方法を応用し「漫画的とは何か?」を突き詰めることを同時にやってのけ、どちらも成功していたのだ。今回はネタバレありで、物語、演出の双方で優れた『バッドガイズ』の魅力について扱っていく。

『バッドガイズ』あらすじ

権力者や富豪から華麗なテクニックで財宝を奪う怪盗集団「バッドガイズ」の活躍を描く、ドリームワークス・アニメーションによる長編アニメ映画。アーロン・ブレイビーの同名児童文学シリーズを原作に、短編アニメ「ビルビー」のピエール・ペリフェルが監督を務めた。

天才的スリのウルフ、金庫破りのスネーク、変装の達人シャーク、肉体派のピラニア、天才ハッカーのタランチュラの5人による怪盗集団・バッドガイズ。これまで派手な盗みを次々と成功させてきた彼らは、伝説のお宝「黄金のイルカ」を狙うが、あと一歩のところで失敗してしまう。逮捕された5人は街の名士マーマレード教授の指導のもと、彼らを「グッドガイズ」に変える実験に参加させられることに。協力すると見せかけて裏をかき、史上最大の犯罪を企むバッドガイズだったが……。

英語オリジナル版では俳優のサム・ロックウェル、オークワフィナ、日本語吹き替え版では歌舞伎役者の尾上松也らが声の出演。

映画.comより引用

与えられたカードで勝負するしかないんだ。

現代思想2022年9月号に掲載された難波優輝氏による論考「メタバースは『いき』か?」にて、「おしゃれ」とは何かについて考察されている。人間は、否が応でも生まれた時から肉体を与えられている。そして、他者とのコミュニケーションにおいて常に見た目に支配されている。創作活動において、作り手と表現は分離されて扱われるのに対して「おしゃれ」という表現技法は、直接他者との関係性を作る。常に見た目によって人は態度を変えるため、「おしゃれ」は強制参加なものであり、専制的なものであると彼は語り、「おしゃれはむごい」としている。

この理論を踏まえて『バッドガイズ』を観ると、印象による支配を描いた作品であることがよく分かる。怪盗集団バッドガイズは、どこへ行っても人々から恐れられている。人々は歩み寄ることもせず印象だけで逃げる。バッドガイズは、恐れられ虐げられた者たちが集まったコミュニティであることが分かる。彼らに対する「恐怖の感情」がいかに表面的であるかをフィクションとしてのハッタリで皮肉る。悪の象徴であるバッドガイズの対極にある、素晴らしい隣人を讃えるトロフィーを盗むため、式場へと潜入する彼ら。彼らは変装をしている。観客からすればバレバレなファッションだ。しかし、人々は誰も招待に気づかないのだ。自分たちと同じ招かれた人として接する。いかに人を見た目で判断しているかがここで強調される。

アクシデントにより逮捕された一味。式場にいた人格者ルパート・マーマレード4世教授は提案する。彼らを「グッドガイズ」にすることはできないか?と。人格者の言うことだからとあっさり周囲の賞賛を得て、彼らは牢屋行きを免れる。そして、いつしか歩くだけでファンが寄り付くようになる。人々は見た目で人を判断するが、社会によって与えられたイメージにも支配されていることを示している。影響力の強い教授によって「グッドガイズ」に仕立て上げられた彼らは、性格こそさほど変わっていないにもかかわらず180度異なった待遇を受ける。賞賛一色となるのだ。その賞賛は莫大な寄付金を集めることに成功する。「黒人は〇〇だ。」、「環境活動家は○○だ。」など世間では主語を大きくして、他者を知った気になることがある。しかし、それは他者を理解したことになるのか?テレビ等のメディアで語られたイメージのまま、他者を表面的に理解していないか?と教授が行うメディアによる印象操作、それによる惨事を通じて我々に問いかけるのだ。

そして重要なのは、バッドガイズ自身もメディアによって形成された「見た目」に支配されていることにある。自分は恐れられている、悪者なのだという先入観から悪事を働いている。「悪人でいること」が彼らのアイデンティティであり、つまりメディアによって与えられた「悪人」というおしゃれに押し込められているのだ。社会的弱者であるバッドガイズは、強者である教授の陰謀によって服を変更させられ、手の上で転がされていくのである。確かに、バッドガイズは変装というおしゃれをすることはできる。しかし、変装した彼らが他者と話すときに発生するのは表面的なコミュニケーションである。素の状態では、「悪人」というレッテルに一方的に押し込められコミュニケーションが成立せず、変装したら表面的。親密なコミュニケーションはそこにはない。だからこそ、おばあちゃんに感謝されるミスター・ウルフは、そこに親密さを感じゾクゾクしたのだろう。そこを教授につけ込まれたのだ。

映画は古典的すり替えの応酬により、教授の野望を阻止するところで終わる。予想の数歩先を行くどんでん返しは、表面的しか見ていない側面をテーマとして打ち出しながらも、この映画を観ている我々ですら「すべて見えているようで何も見えていない」ことを強調する。人の内面は複雑なのだと物語るのである。だからこそ、バッドガイズは別の悪事を解決したところで牢屋行きを免れることはない。罪を償い、再出発するのである。『ズートピア』でも印象論に関する問題は扱われていたが、より掘り下げて描いた作品だと言える。

漫画的=デジタルなアクション

本作は、アクションパートも観応えがある。『スパイダーマン:スパイダーバース』で異なる質感のアクションの同時共存が話題となったが、それを自然な形で取り込んでいる。具体的にいえば、登場するキャラクターのヴィジュアルや街並みは3Dで構成されているのだが、車から立ち込める煙やアクションのエフェクトは2Dで構成されている。そして時折、彼らは2Dの画として提示される。この演出の差がひとつの画の中で同時に現れることにより豊かなアクションが生まれる。

これだけなら、他のアニメ作品でも観られることだろうし、なんなら日本が得意とすることでもある。『バッドガイズ』はこれに加えて「漫画的」演出が加えられている。ところで、漫画的とは何だろうか?漫画は、ひとつのページの中に仕切りが区切られている。コマとコマの間には断絶がある。読む者は、断絶されたコマとコマの行間を脳内で補うことで時間の流れを生み出す。小説やアニメと異なるのは、漫画はデジタルなメディアだということだ。飛び飛びの点で構成されるメディアである。一方、小説は、確かにページをめくる必要はあるが、基本的に流れるように文章を読んで連続的な物語時間を生み出していくメディアだ。アニメや実写映画も確かに、1コマ24フレームとコマに分かれてはいるが、観客はほとんどそれを意識しないで連続した運動を観て物語を汲み取る。どちらもアナログなメディアといえる。

それを踏まえて本作のアクションに注目しよう。攻撃する、倒れるのアクションが数段階に分かれていることに気付かされるであろう。対象の間合いに入るまでは、シームレスに動く。しかし、攻撃を加える時に妙な間がある。攻撃がヒットする→刹那の間がある→倒れるを繰り返すのだ。また、ミスター・ウルフを助けに来たシャークが調子に乗ってダンスをする場面ではカクカク動く。このデジタルさこそが「漫画的」の本質なのだ。

さて、本作の漫画的なアクションとして最も注目すべき場所は刑務所からの脱出シーンにある。下からのアングルで、落下する者とそれを追う無数の警備員が織りなす円形の画。日常ではなかなか観ることのできない光景である。この画を魅せた直後にバッドガイズは爆発する刑務所を背にボートで逃亡している。その間にあるであろう過程がごっそり抜け落ちているのだ。これは漫画のコマとコマを意識させる繋ぎといえる。下方向の運動と、それに伴う上方向の爆破、そして前進するバッドガイズを通じてアクションにより修羅場を華麗に突破していく様子が描かれる。漫画と違って、同じ画にコマを並べている訳ではないので、行為と結果、とそれにより生み出される道のベクトルを明確にした画を並べることで漫画を生み出していると考えることができるのである。

このように『バッドガイズ』は物語面でも演出面でも光るものがある作品であった。
※映画.comより画像引用