ブレット・トレイン(2022)
Bullet Train
監督:デビッド・リーチ
出演:ブラッド・ピット、ジョーイ・キング、アーロン・テイラー=ジョンソン、ブライアン・タイリー・ヘンリー、アンドリュー・コージ、真田広之、マイケル・シャノン、バッド・バニー、サンドラ・ブロック、サジ・ビーツetc
評価:80点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
伊坂幸太郎の人気小説「マリアビートル」がまさかのブラッド・ピット主演で映画化!原作は交錯する人間関係と、映画や小説、アニメネタを味わい深く挿入していく文体が魅力的であった。海外映画にありがちな変な日本描写が堪能できる作品であるのだが、その珍妙な解像度の差異が面白く、荒々しくも空間演出が巧みでありました。
『ブレット・トレイン』あらすじ
作家・伊坂幸太郎による「殺し屋シリーズ」の第2作「マリアビートル」を、「デッドプール2」のデビッド・リーチ監督がブラッド・ピット主演でハリウッド映画化したクライムアクション。
いつも事件に巻き込まれてしまう世界一運の悪い殺し屋レディバグ。そんな彼が請けた新たなミッションは、東京発の超高速列車でブリーフケースを盗んで次の駅で降りるという簡単な仕事のはずだった。盗みは成功したものの、身に覚えのない9人の殺し屋たちに列車内で次々と命を狙われ、降りるタイミングを完全に見失ってしまう。列車はレディバグを乗せたまま、世界最大の犯罪組織のボス、ホワイト・デスが待ち受ける終着点・京都へ向かって加速していく。
共演に「オーシャンズ8」のサンドラ・ブロック、「キック・アス」シリーズのアーロン・テイラー=ジョンソン、「ラスト サムライ」の真田広之ら豪華キャストが集結。
非現実の箱は一度入れば破損しても非現実
扉が閉まれば、外の世界と分離される。そこにはある種の非現実がある。『ブレット・トレイン』は「カラオケ」、「お弁当屋」などといったリアルな日本語とネオンが彩るサイバーパンクシティ東京の喧騒が現実の面影を宿しながら、新幹線の中で次第に非現実空間へと化けていく。ブラッド・ピット演じるレディバグが、外へ出ようとしても障害に阻まれ、車内に押し込められてしまう。気がつけば、あれだけたくさんいた客が消滅しており、刺客だけの空間となる。新幹線内を往復し、彷徨う中でやがて非現実を受け入れるしかないと向き合い、壊れゆく新幹線の中で終点目指して前進する。新幹線の壁は壊れていき大破していく。箱は外の世界へと結合するが、それは非現実の非可逆的な側面を示唆しており、混沌の中、彼は新しい旅へと踏み出す。
本作は、一見すると荒唐無稽でありながらも、次第にゲームのようなヴィジュアル。例えるならば、アクション中に△や○などといった指示が出てきて、それを押すことでアクションが行われていくような空気感へとシフトしていく。非現実的な現実から完全なる非現実へのシフトを促すスパイスとしての日本語描写が冴え渡っていた。また、原作同様、小道具の物語となっており、トランク、銃、毒薬が冒険の中で移動していき、それが伏線として機能していく展開は『デッドプール2』や『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』とアクションの連鎖を描いてきたデビッド・リーチの腕が光っていた。特に、スマホが普及し簡単に外と結合できるスマホを早々に破壊することで、非現実へのシフトを強化していくところが素晴らしい。
さて、ハリウッド映画における日本描写は毎回、中国や他のアジア諸国の質感が混ざっている気がするのだが、『ブレット・トレイン』は日本描写監修が入ったのか解像度がやたらと高かった。たとえば、日本のガラパゴス化したお菓子像が顕著であり、さりげなくアンパンマンスナックが出てくるところはツボであった。また、冒頭の音々シーンに映る飲食店やスナックの看板は実際にありそうなものに仕上がっていたのでよかった。一方で、自販機に水が引っかかって出ない描写は「流石に外国人は知らないか」と思った。海外の自販機は商品が詰まって出ないことがよくある。特にドリンク系は、壁に引っかかって落ちてこない現象があり、私も昔何度か体験したことがある。日本では温泉のコーヒー牛乳販売機を除き、横向きに落ちてくるのでほとんど引っかかることがないのだが、それは理解していないようであった。
最後に、原作「マリアビートル」は映画的カッコ良く手汗握る描写が多いものの、文章で表現されたようなカッコ良さは再現できていなかった。
例えば、次のような場面がある。
「『ダックがほかの機関車たちの悪い噂を流しているぜ』ってな、意地悪なディーゼルはそう言い回ったわけだ。ソドー島の蒸気機関車たちはいたって単純だから、ダックがそんな悪口を言っていたのか、ってみんなかんかんに怒った。まあ、濡れ衣だよな」
王子は、演説するかのようにあらすじを話す檸檬に、少し呑まれそうになるが、その檸檬がとうとうと喋りながらも手に銃を持ち、一回外したはずの減音器を、寿司でも握るかのような器用な動きで回転させ、いつの間にか装着しているのを見て、え、と驚く。儀式をはじめる前に衣装を調えるかのような、ゆっくりとしながらも馴れた手つきだった。
(「マリアビートル」p417より引用)
滑稽ながらも、殺し屋としての職人技を魅せていく檸檬をじっくり描写することで、死を感じた際に流れる長い時の流れを表現しているわけだが、映画は動きが早すぎた。これを踏まえると、「マリアビートル」におけるアクションは、読者のスピードによってスローモーションになり現出するものであると考えられる。トランクのダイヤル錠を開ける際の焦燥も、映画だとあっさり処理されていることからも、「マリアビートル」は映画的な物語だが極めて小説的物語だったと言えよう。