はい、泳げません(2022)
監督:渡辺謙作
出演:長谷川博己、綾瀬はるか、伊佐山ひろ子、広岡由里子、占部房子、上原奈美、小林薫、阿部純子(吉永淳)、麻生久美子etc
評価:95点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
気合の入ったイラスト調のポスターで気になっていた『はい、泳げません』が公開された。泳げないことを開き直ったタイトル。これは高橋秀実の本の映画化らしい。監督は『舟を編む』の渡辺謙作。『舟を編む』は辞書作りという映画にし難い題材ながら、魅力的な作品となっていた。今回は、哲学教師が泳ぎを克服するためにスイミング教室に通う出オチ感溢れる題材だ。しかし、これが素晴らしい作品であった。今回はネタバレありで考察していく。
『はい、泳げません』あらすじ
NHK大河ドラマ「八重の桜」で夫婦役で共演した長谷川博己と綾瀬はるかが映画初共演を果たし、ノンフィクション作家・高橋秀実の著書「はい、泳げません」を映画化。「舟を編む」の脚本を担当した渡辺謙作が監督・脚本を手がけ、水泳教室を舞台に“泳げない男”と“泳ぐことしかできない女”の希望と再生を描く。大学で哲学を教えている小鳥遊雄司は水に顔をつけることが怖く、泳ぐことができない。これまで頭でっかちな言い訳ばかりして水を避け続けてきたが、ひょんなことから水泳教室に通うことに。プールを訪れた彼に強引に入会を勧めたのが、陸よりも水中の方が生きやすいという風変わりな水泳コーチ・薄原静香だった。静香が教える賑やかな主婦たちの中にぎこちなく混ざった雄司は、水への恐怖で大騒ぎしながらもレッスンを続けるが……。
無意識を意識し、成仏される過去
「あたりまえ」となった行為ほど意識されることはない。我々は、常に何気なく歩く、そして何気なく泳ぐ。右足と左手の関係性や、泳ぐ際のフォームを意識することは少ない。しかし、「あたりまえ」が「あたりまえ」でない人にとって「あたりまえ」の行為は手順のひとつひとつに眼差しを向け分析する必要がある。しかし、「あたりまえ」に行為を実行する者にとって、ひとつひとつの手順に眼差しを向ける行為は理解し難い者がある。本作は、この差を通じて映画でできることを探求している。
主人公である小鳥遊雄司(長谷川博己)は哲学教師だ。教壇の上では、論理的に理論を組み立て学生に問いを投げかけている。そんな彼は苦手な水を克服しようとスイミング教室に通う。水の中では彼は無力だ。自由自在に身体をくねくねさせる女性たちとインストラクター・薄原静香(綾瀬はるか)を前に彼の弁は、なす術もない。親密になり、調子に乗って薄原の例え話を論破しようとしてもあっさり返されてしまう始末。ひたすら醜い姿を晒される。
そんな彼がプールで魅せる泳ぎは、膠着と行為が綱引きした結果生み出される、限りなく運動をしていない運動だ。身体が沈み、情けない足の動きが僅かな推進力を与える。頭でっかちで、息を吸う、右手を前に伸ばすなどといった手順をプログラムのように機械的に踏む。そのぎこちなさが画を支配する。突然、立ち止まったり、夜になればプールを横断したりと、プールが出てくる映画はもちろん、現実では滅多に観られない異様な動きが画を支配するのだ。ただ、これだけなら想定済みだ。「泳げない」アイデアから連想して、泳ぐ運動を拒絶した時に見えるものを探求するだけの映画でないことが重要だ。
小鳥は自分がカナヅチなせいで息子を失った過去がある。しかし、溺れる中で記憶を失ってしまっており、それに苦しめられている。人は認識することで脳に記憶される。息子の死を認識しているはずなのに、記憶されていない過去の存在に悩まされているのだ。人は、思い出せない記憶を探る時、行為を手順としてひとつひとつ解体していく。その作業が、水泳に象徴されている。泳ぐ行為を分析する。この時点では、肉体と精神は乖離している状況だ。しかし、分析と実践を繰り返していくうちに肉体と精神の溝が埋まっていく。「あたりまえ」でないことを意識しながら「あたりまえ」にしていく作業なので、「あたりまえ」になった瞬間はまだ「あたりまえ」でなかった時の記憶が残っている。その差分を通じて、生きるために必要な新しい道を導き出していく。この場合、泳ぎの克服を通じて、失った息子のことを受け入れ前向きに人生を歩む発想へ至るのだ。
また、本作は哲学者の男性を教壇から引きずり下ろし、非哲学者の女性たちに振り回されることが重要だったりする。小鳥は無意識に、会話の主導権を握ろうとしていく。しかし、シンプルな例え話ですら全て返されてしまう。ひたすら、マウントに失敗する中で、段々と他者の発想を受け入れ、対等に議論し合い、それが自分を見つめ直すことに繋がってくる。つまり、男性社会であり対等に見えて対等でない議論が多い日本における問題提起が隠されているのだ。
最後に、『はい、泳げません』は「あたりまえ」の行為である泳ぐの外側の視点を、別の角度から描いていることについて触れよう。冒頭、水が怖いと語る小鳥。それを小馬鹿にする女性に、謎の男女が現れ納豆を口の中へ詰め込まれる場面がある。これは、恐怖の外側にいる人を強制的に内側へ引き摺り込む演出と言える。また、薄原が屋外に対して過度な恐怖を抱く場面を小鳥が見つめる場面がある。これは「あたりまえ」の世界から「あたりまえ」ではない世界に対して眼差しを向ける演出といえる。
二分割された画から薄原の手がニョキッと伸び、無理やり小鳥を泳ぎへと誘うように、「あたりまえ」の内側/外側を肉体と精神の関係性から見つめ、そしてトラウマを乗り越えるバネにしていく。哲学の思索の末に人生を見出す側面を正確に捉え、映画における運動への執着に満ちた『はい、泳げません』は2022年を代表とする映画の一本となった。
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※映画.comより画像引用