『春原さんのうた』二重の壁の奥の痛みと守りたいその笑顔

春原さんのうた(2021)
Haruhara-san’s Recorder

監督:杉田協士
出演:荒木知佳、新部聖子、金子岳憲、伊東沙保、能島瑞穂、日髙啓介、名児耶ゆり、北村美岬、黒川由美子、深澤しほetc

評価:80点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

第32回マルセイユ国際映画祭でグランプリ、俳優賞、観客賞を制覇し、国際的に注目されつつある杉田協士監督。第22回東京フィルメックスでも評判だった『春原さんのうた』がようやくポレポレ東中野で公開されたので観てきました。前作『ひかりの歌』で独特な間の使い方に惹き込まれた訳だが、本作はさらに研ぎ澄まされた演出に驚かされました。

『春原さんのうた』あらすじ

「ひかりの歌」で注目された杉田協士監督の長編第3作。作家・歌人の東直子の第1歌集「春原さんのリコーダー」の表題歌「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー」を基に、喪失感を抱える女性がささやかな暮らしを続ける姿を映し出す。美術館での仕事を辞め、カフェでアルバイトを始めた24歳の沙知。常連客から勧められたアパートの部屋で新しい生活をスタートさせる彼女だったが、その心にはもう会うことの叶わないパートナーの姿が残っていた。2021年・第32回マルセイユ国際映画祭でグランプリ、観客賞、主演の荒木知佳が俳優賞を受賞。

※映画.comより引用

二重の壁の奥の痛みと守りたいその笑顔

閉塞感を描いた作品は、大小あれども映画のどこかで叫びがちだ。それは現実では叫ぶことができないことことに対応し、映画を避雷針として使っているからであろう。しかし、安易な叫びは果たして痛みから救うことができるのか?杉田協士が『春原さんのうた』で魅せる眼差しを通じて、叫びを封印した寄り添いのあり方について考えさせられる。本作は、会話が少ない。数少ない会話は「えっ」「うん」などといった会話にもなっていないものが多い。しかし、人は言葉だけで会話をする訳ではない。表情やその場の空気感、空間を通じて他社の意図を汲み取るのだ。映画は日常の会話を最適化してしまうので、淀みない会話が展開される。しかし、現実には言語化できず会話が止まってしまったり、相手との歩幅が合わず会話が詰まってしまうことがある。映画はその存在を無視しがちだ。本作では、その要素を掬い上げて物語る。故に、観る者は『春原さんのうた』の世界観に没入する必要があるのだ。この世界に入ることが映画のテーマと強固に繋がってくる。

本作はコロナ禍に入ってから数少ない、生活様式の変化を効果的に物語へ置換した作品である。それは心の壁としてのマスクの存在だ。部屋にある微かな面影に喪失感を背負い前へ進む女性・沙知。彼女から出てくる言葉は少ない。また彼女は喪失による痛みを表に出さないようにしている。コロナ禍でコミュニケーションも希薄となり、人間と人間との間の壁が厚くなっている。これを象徴するように、本作では部屋/カフェの内側/外側の関係性を示すショットが多い。ラフな格好をしたおじさんが、沙知を心配して玄関前で「他に必要なものある?」と訊く、その空間には壁がある。また、友人が彼女の家を尋ねてくる時、コンコンと扉を叩き、恐る恐る扉を開ける。カフェに入る客も、ワンテンポ躊躇の間を置いてから入る。部屋やカフェに入るということは、他者の世界に入ることである。そのためらいを、徹底的に捉えていく。やっと入っても、マスクで顔が覆われ、まだ壁がある。この二重の壁を氷解させるアクションとして本作では「食事」をするのだ。どら焼きやケーキ、スパゲッティを食べる。その時、人はマスクを取る。美味しいご飯やスイーツを食べている至福の時間は、心を開かせ、内に秘めた痛みを魅せてくれる。もちろん、喪失による痛みは深く言語化は難しい。だから、リコーダーや歌といった別のものを媒介にし、模索しながら氷解の儀式を行うのだ。

またこの映画は単に引き篭もった人間の心理を救うだけの物語ではない。心に痛みを抱えても救いの手を差し伸べることで前進できることも示している。例えばカフェの前で道に迷う者がいる。その時、沙知はカフェから外に出て彼女に語りかける。そして目的地まで寄り添うのだ。空間の内側だけでなく、外に出る場面もあるのだ。それは沙知がカフェの中でスパゲッティを食べる動画をカフェの窓に映して皆で観るところにも現れている。外に出ることで他者に癒しを与えている。それが自分自身を救うことにも繋がっているのだ。

正直、本作は一度観ただけではわからない部分が多い。バイクで移動するシーンに涙したのだが、なんで涙したのか自分でもよく分かっていない。でも繊細で素敵な映画を観たことは間違いありません。飯岡幸子の柔らかいカメラワークもあり至福の2時間であったことも間違いありません。

P.S.主演の荒木知佳があまりに可愛くて、守りたいその笑顔となりました。

※映画.comより画像引用