【ネタバレ考察】『星の子』神の水は三度蒸発する

星の子(2020)

監督:大森立嗣
出演:芦田愛菜、岡田将生、大友康平、高良健吾、黒木華etc

評価:80点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

先日の映画呑みで芦田愛菜主演の『星の子』が話題となった。今村夏子の同名小説の映画化で、新興宗教にのめり込む両親に挟まれた子の惑いを描いた作品だ。だが、監督は悪名高き大森立嗣である。2010年代の日本閉塞感ものの代表であり、一方でマンネリ化を引き起こした監督である。とにかく表面的で、重く、キネマ旬報の連中に媚びを売っているような映画ばっかり作っていて辟易とする。それだけに倦厭していた。芦田愛菜が走る姿が凄いと一人が力説していたものの、その時はピンとこなかった。課題映画だからと、テンション低めで観たのだが、大森立嗣最高傑作と言っても過言ではない繊細な傑作であった。ここではネタバレありで本作の素晴らしさについて語っていきます。

『星の子』あらすじ


子役から成長した芦田愛菜が2014年公開の「円卓 こっこ、ひと夏のイマジン」以来の実写映画主演を果たし、第157回芥川賞候補にもなった今村夏子の同名小説を映画化。大好きなお父さんとお母さんから愛情たっぷりに育てられたちひろだが、その両親は、病弱だった幼少期のちひろを治したという、あやしい宗教に深い信仰を抱いていた。中学3年になったちひろは、一目ぼれした新任の先生に、夜の公園で奇妙な儀式をする両親を見られてしまう。そして、そんな彼女の心を大きく揺さぶる事件が起き、ちひろは家族とともに過ごす自分の世界を疑いはじめる。監督は、「さよなら渓谷」「日日是好日」の大森立嗣。
映画.comより引用

神の水は三度蒸発する

新興宗教といえば、最近だと吉田大八『美しい星』の大げさで露悪な演出を思い出すが、それに対して『星の子』は日常の一部となっている新興宗教をリアルに描写する。アヴァンタイトルで、両親が神の力宿る水にのめり込む過程を簡潔丁寧に描写する。最初は、宗教の外側にいた父親が、娘の炎症をどうにかしようともがく中で水と出会う。そして、驚くべきことにその水で娘の炎症は治る。その成功体験から、両親は新興宗教にのめり込み、娘を守るために、タオルを頭に乗せ水を掛け合う怪しい儀式を日課として取り入れていく。それがいつしか「普通」となる。そして新興宗教は、社会から外れた孤独や苦難を抱えた人が集まり共同体を形成する。共同体の中で痛みを癒しあう生活に浸り、もう外側の世界を認識できなくなってしまう。いや、外側の世界を認識したら自分の信じるものが崩壊するので、心の奥底に抑圧した状態と言っても良いだろう。そんな両親に蔑視の目を向ける姉は両親が「普通ではない」ということを認識している。両親がおかしくなったのは妹のせいなのではと思う一方で、妹思いなところもあり、心が引き裂かれそうになっている。それを当の妹は「まだ気づいていない」。周りからは変だよ。と言われている。「両親は新興宗教に入っている」という声も聞こえる。彼女はそれを受け入れている。別に辛い思いをしていないので、なんとも思っていないのだ。

そんな彼女が三度の絶望を味わうことで、少女から女へと変化し、自分で複雑な状況を反芻し、自分なりの答えを出そうとする。その過程を鮮やかに描いてみせていた。彼女は、姉の家出によって薄らと両親がハマっている新興宗教に違和感を感じていく。そして、それが決定的確信になる場面が、好きだった南先生に家まで送ってもらう場面。南先生が「まじで狂ってやがる」と家の目の前で儀式をしている両親を指差して唖然とする。ここで彼女は初めて、外の世界から見た異様な存在としての自分たちというものを認めざる得なくなる。そして保健室の場面で、彼女は「水をかけたの。私風邪引かないの。水を飲むと。」と言う。それは今まで信じていた神の水が信じられなくなった苦しみが込められている。親戚から水の正体を明かされた時ですら、その信仰を棄てられなかったのに、手放そうとする。その痛みの込められた重い一言であるにもかかわらず、保健室の先生は「ただの水でしょ」と軽くあしらうのだ。この繊細な駆け引きによってドンドン映画の世界へ引き込まれていく。

南先生がホームルームでキレた際に、彼女を名指しして水を否定する。今まで大好きだった先生に正面からナイフで刺された彼女の信仰は完全に破壊された。人が信じられなくなった。親戚は彼女を両親から隔離しようと手招きするが、それを跳ね除ける。迷いを抱きながら、新興宗教の大集会へ参加する。彼女は中学3年生故、両親とは別の部屋で友達と寝泊まりすることとなる。両親を探しても見当たらない。彼女に声をかけてくる人の中には、この宗教に猜疑を抱いている者がいる。彼女は何を信じればいいのかわからないまま、不穏な空気が蠢く空間を暗中模索する。

本作は、日本の閉塞感ものにありがちな表面的理解から安易な結末を落とし込むようなことはしない。日本映画としては珍しい、豊潤な間を使った断絶のクライマックスが用意されているのだ。

両親が彼女を見つけ出し、星を見ることを提案する。家族が抱きしめ合いながら星を見る。父親が「流れ星だ」と言う。だが、2人は気づかない。彼女は帰ろうよと言うのだが、両親は帰してくれない。じーと星を眺める。今度は両親が流れ星を見つける。彼女だけが見つけられない。さらにじーと夜空を見つめる最中に、父親がくしゃみをし、その刹那に彼女は流れ星を見つける。「三人で見ないと意味ない」と力強く両親は彼女を抱きしめ、虚無の空を眺め映画は終わる。

フレームの外側への好奇が、もはや家族が心を一つになることはない絶望を強烈に象徴させる。この美しくも居心地の悪い間の使い方が新鮮でこれぞ2020年日本の閉塞感描写の新しい一歩なのではないかを思わずにはいられなかった。

2019年『WE ARE LITTLE ZOMBIES』に始まり、『ミッドナイトスワン』と日本の閉塞感描写に一石を投じる作品が増えてきており、2020年代の日本映画は明るいのではと思いました。

※映画.comより画像引用

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