劇場(2020)
監督:行定勲
出演:山﨑賢人、松岡茉優、寛一郎、伊藤沙莉、浅香航大etc
評価:15点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
先日、コロナ禍を受けて又吉直樹原作の映画化『劇場』が映画館とAmmazon Prime Videoの同時公開が実験的に行われました。配信と映画館は水と油の関係で、アメリカでは『トロールズ ミュージック★パワー』の公開を巡って、映画館と配給が揉めた事案もある。しかし、長期戦に渡るコロナ禍で映画業界は新しい興行の方法を考えないといけないフェーズに来ています。そんな、状況で行われた映画館と配信の同時公開。その作品に選ばれた『劇場』は、不運にもこの状況で公開されてはいけない作品であり、尚且つあまりに酷い作品で開いた口が広がりませんでした。ということで、ここでは心苦しながらも『劇場』がマズかったところについてネタバレありで書きます。ガッツリ酷評なので、読む方は気をつけてください。
『劇場』あらすじ
「火花」で芥川賞を受賞した又吉直樹の2作目となる同名小説を、主演・山崎賢人、ヒロイン・松岡茉優、行定勲監督のメガホンで映画化。中学からの友人と立ち上げた劇団で脚本家兼演出家を担う永田。しかし、永田の作り上げる前衛的な作風は酷評され、客足も伸びず、ついに劇団員たちも永田を見放し、劇団は解散状態となってしまう。厳しい現実と理想とする演劇のはざまで悩む永田は、言いようのない孤独と戦っていた。そんなある日、永田は自分と同じスニーカーを履いている沙希を見かけ、彼女に声をかける。沙希は女優になる夢を抱いて上京し、服飾の大学に通っている学生だった。こうして2人の恋ははじまり、お金のない永田が沙希の部屋に転がり込む形で2人の生活がスタートする。沙希は自分の夢を重ねるかのように永田を応援し、永田も自分を理解し支えてくれる沙希を大切に思いながら、理想と現実と間を埋めるかのようにますます演劇にのめりこんでいく。
※映画.comより引用
挫折、蹉跌、画で魅せない多弁は傑作遥か手前で左折する。
「いつまで持つだろうか?」
何かに挫折し、蹉跌の荒野を彷徨うようにフラフラと街を漂う男。やがて、画廊の前に立つ。同じタイミングで、女性の人も画廊を覗きこむ。人に飢えている彼は執拗に彼女を追い回し、無理矢理デートする。金もなく、女にたかる。彼女の意見など聞かずに、「アイスコーヒー二つ」と頼む。このシークエンスから、いかにこの男が自己中心的かが分かる。そんな映画的始まりは、そこで試合終了となる。急に彼の心の多弁が人生の言い訳をし始めるのだ。
小説ではよくある独白形式の語り口だ。恐らく原作がそうなんでしょう。しかし、これは映画である。文章を映像に翻訳する必要があるのだが、どうも雲行きが怪しくなり、その嫌な予感は的中します。ひたすらに山﨑賢人演じる永田の心の声が、文学的を装いながら、ただの棒読みで彼の愚行録を述べていくのだ。彼は今風のクズとでも言えようか?斜めに構えているのだが、ビビリで、寂しがり屋。その癖、カノジョを自分のものにしながらも接吻一つまともにできない男なのだ。そんな彼の痛々しい日々が、痛々しすぎる非映画的な演出でもってさらにツラいものとなる。演劇の打ち上げで、険悪なムードになる劇団員に「テメェらは演劇分かっていない」と見下し、大惨事になるお決まりはまだ良いのだが、例えば同年代の劇団員が主催するお芝居に足を運ぶと、次から次へと現れる有名人を指差してあれはドコドコの人だ、あっちにいるのは業界関係者だと台詞だけで彼らの役割を肉付けしてしまう浅はかさ。
しかも、その凄いと思しき劇はシリアスでドラマチックな場面を感傷的な慟哭で押し通そうとしているようにしか見えず、何故観客は感動しているのかがイマイチ伝わらないのだ。それと退避するように、陰日向で細々やっている演劇を象徴するように安っぽくパッヘルベルのカノンを挿入してみたり、クライマックスでは寺山修司『田園に死す』のラスト同様、家が崩壊して観客の姿を魅せる安易なオマージュを捧げ、ちょっとウケたところで猿の面をつけて踊る外しを挿入する演出が施されているのだが、それはこの映画の演出不足をキャラクターに責任転嫁して言い逃れしようとしているように見えて居心地が悪いものとなっている。
また、本作はタイミング悪く、いやそもそも今製作されるべき作品ではなかったのだろう、女性への搾取が際立ってしまっている。無論、『風立ちぬ』のように芸術に没頭するあまり女性がないがしろにされる様子を描いた傑作も存在する。しかし、そういった作品では肉体的交差が精神的理解を象徴させることによって、人間の心理に重厚感を持たせ、批判を回避できるようになっている。ただ、本作の場合は肉体的交差すら避け、ひたすら松岡茉優演じる沙希の心を奪うばかりで、最後も何故か二人は同じステージに立たなくなってしまう。観客と演者という距離感のまま終わってしまうのだ。これはどういうことだろうか?彼女は、拒絶から受容に心理が動き、彼に尽くす。しかし、彼女の尽くしは一切報われていないのだ。それにもかかわらず、映画はクズでも生きていればそれで良い。愛に気づけばそれで良いと永田の人生を賛美するだけである。
昭和の肉欲的な映画ですらなかなかそこまで女性を酷い扱いすることはあまりないと思う。しかも、行定勲監督が描いているだけに悪意なく純粋に小説を映画化しようとしているような雰囲気が感じられるので尚更タチの悪い作品になっているのだ。別に、クズに成長や破滅を求めていない。ただ、2010年代以降の草食系クズを映画で描くと、あまりに直視し難い醜態となってしまうことがこの作品で分かった。しかも、本能的なところですら全て台詞で語らせ、延々に言い訳をし、会話の間すら恐れてしまう描き方は今年最悪の出来と言えよう。
ジャン・ユスターシュやホン・サンス、今泉力哉映画でお口直ししたいところである。
コメントを残す