『Fukushima50』映画は《冷却》を目指す、観客は《熱暴走》を感じる

Fukushima50(2020)

監督:若松節朗
出演:佐藤浩市、渡辺謙、吉岡秀隆、安田成美etc

評価:40点

日本が滅亡するのでは?

9年前の2011年3月11日、当時高校生だった私は厭世的、絶望的感情に包まれた。陸上部の練習が終わり、実家の引越しの手伝いに向かう。そして丁度、本棚を運び出したその時、永遠に続くかと思われる振動が建物を激しく揺さぶった。テレビをつけると、ローランド・エメリッヒの映画の世界でしかみたことも内容な破壊が福島を包んでいた。そして原発が爆発し、夜通し業火に包まれる原発を雀の涙とも思える放水でなんとかしようとしている様に、この世の終わりを感じた。次の日、何事もなかったように日常が繰り返される仙川の商店街を見て、あれは夢だったのかと思うものの、現実がその逃避を許すまじといつまでも追いかけてきた。

9年前の出来事なのに、未だに昨日のことに思えるあの世紀末。しかし、今、今度は世界規模で滅亡の足音が徐々に、徐々に大きくなってきている。いつもの病気の流行かと思いきや、新型コロナウイルスの猛威は世界を包み込み、次々とライブやイベントが中止となっている。日本では映画館やカラオケも閉館・自粛するようになった。東日本大震災とは違い、病の流行なのでこういった娯楽施設は営業中止となってしまうのだ。そして、2020年東京オリンピックに向け強引に夢を見せてきた日本政府のボロが出始め、そのボロを隠そうと愚行を繰り返すうちに独裁国家が爆誕しようとする今。しかし、世界の厳しい眼差しから、『AKIRA』や『麻雀放浪記2020』で描かれる東京五輪中止の世界軸が今そこに迫ろうとしている。

さて、映画業界では次々と新作映画が上映延期となる中、東日本大震災を描いた『Fukushima50』が公開された。あの当時、現場で何があったのかを描いた門田隆将の小説『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』の映画化だ。しかし、前評判はかなり辛辣で、キネマ旬報の星評では3人全員が星1/5をつけていた。また、既に観た映画仲間からも辛辣な評価があがっていた。

さて、ブンブンの瞳にはどう映るのか?

不安を片手に映画館へ足を運んだ。

『Fukushima50』あらすじ


2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故で、未曾有の事態を防ごうと現場に留まり奮闘し続けた人々の知られざる姿を描いたヒューマンドラマ。2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0、最大震度7という日本の観測史上最大となる地震が起こり、太平洋沿岸に押し寄せた巨大津波に飲み込まれた福島第一原発は全電源を喪失する。このままでは原子炉の冷却装置が動かず、炉心溶融(メルトダウン)によって想像を絶する被害がもたらされることは明らかで、それを防ごうと、伊崎利夫をはじめとする現場作業員や所長の吉田昌郎らは奔走するが……。現場の最前線で指揮をとる伊崎に佐藤浩市、吉田所長に渡辺謙という日本映画界を代表する2人の俳優を筆頭に、吉岡秀隆、安田成美ら豪華俳優陣が結集。「沈まぬ太陽」「空母いぶき」などの大作を手がけてきた若松節朗監督がメガホンをとった。
映画.comより引用

映画は《冷却》を目指す、観客は《熱暴走》を感じる

若松節朗監督は、非常に際どい選択を映画の中で行った。それは、俳優全員に大根芝居をさせることである。映画を観慣れている人にとってはたまったもんじゃないだろう。なんたって、感動のゴリ押しのような、感動ポルノとも捉えられる、情と慟哭を山のように積み上げ、日本映画の悪い癖であるとにかく叫べば観客の感情を揺さぶルことができると勘違いした描写で埋め尽くされているからだ。

しかしながら、東日本大震災を描く上でこの演出はある種の正解だとも言える。ポスト東日本大震災映画として『シン・ゴジラ』がある。これは災害による極限状態の中、人々が善悪を超えた領域でぶつかり合うことで、災害を克服していく様を描いていた。無論、庵野秀明は大好きな『ゴジラ』の世界の中で『新世紀エヴァンゲリオン』をやったまでなのだが、東日本大震災時、政府や東電、そして市民が一致団結、マンパワーで災害を乗り越えようとした姿と一致し、完全に東日本大震災後の映画として歴史に名を刻み込んだのだ。
そして若松監督はその文法を前作の『空母いぶき』で使用し、それを踏まえて今回の『Fukushima50』がある。『シン・ゴジラ』、『空母いぶき』というフィクションと比べ、本作は実話を描く必要がある。多くの人があの時代を知っているだけにリアリズムを出す必要があると考えたのだろう。そう考えた時に、《演技をしている》という要素を取り除く必要が出てくる。その回答として、素人演技を役者にさせる演出を採用したのだろう。

画面の中で、終始現場の人間の悲鳴と、修羅場修羅場の深淵の中でギリギリの決断をする様子が描かれる。現場目線では、原子炉建屋が大津波に襲われたことも、電力がそれで奪われたこともすぐには分からない。ただ、大地震が来たので、手順に沿って復旧を試みるに徹するのみだ。しかし、段々と状況が深刻であることに気が付いてくる現場。自分たちが守らねば、日本は終わるという危機感のもと行動に出るのだが、外側にいる政府の一方的な命令に苛立ちを隠せない。本作は、そういった現場の焦燥をドラマティックかつリアルに描いている。

…しかしだ、かつて新藤兼人が戦後7年で『原爆の子』、事故から5年で『第五福竜丸』をドラマティックかつ冷静に描いたわけだが、そういった冷静さは若松監督にはなかった。そもそも東電の対応を美化するこの企画自体が問題であることは横に置いておくとして、あまりにも政府の対応を悪として描く露骨な演出には賞賛し難いものがありました。映画と現実の差異については、他の方に任せるとします。所詮、映画はフィクションなので重箱の隅を突くように差異を言及するのはナンセンスだと思っているからです。

ただあまりにも総理大臣の描き方が酷かったので、そこには言及しようと思います。当時の菅直人総理大臣(映画ではただ総理大臣としか出ていない)が、原子炉建屋の圧力を緩和するために、放射能をやむ得ず外に排出しようとする《ベント》を行おうとする現場のことを無視して視察に向かう場面。ヘリコプターの中で、総理大臣が専門家から警告を受け、「早くなんとかせい!」と怒鳴りながら、現場スタッフを押しのけていく。明らかに、総理大臣をバカにしている描き方がされている。また、現場に指示を出す委員会も、一方的に「現場でなんとかしてください」と責任を押し付けてばかりだ。『シン・ゴジラ』の手法を取り入れた作品である本作に決定的に足りないのは、善悪を超えた先を魅せてくれないところにある。既に映画の序盤から、現場=正義、外部=悪という構図に落とし込んでいて、その悪というのは政府だけでなく市民にまで向けられている。現場が頑張っているんだから、市民も言うことをきけ!と言っているようにしか見えないのだ。確かに、新型コロナウイルス対応に追われる政府を内側目線から描いているのであれば分かるのですが、菅直人の時代にはまだ魂があったはずである。

そして、定期的にアメリカ「日本はわかっていない。だから助けよう。」というの描写を入れて、そういった視点から批判されることを緩和しようとしている。つまり熱を《冷却》しようとしているのだが、観る人が観れば、単に《熱暴走》しているだけにしか見えません。

確かに、本作は『空母いぶき』の時のガッカリ感とはうって変わって『沈まぬ太陽』の若松監督が帰って来たのでは?と思い映画に魅入ってしまったし、今公開される意義はある。しかしながら、あまりに感情が前面に出て、白黒つけるだけの話に収斂し、とってつけたかのように東京オリンピック2020を肯定する結論へ結びつけているところに段々と腹が立ってきました。

ただ、ワーストに入れる程酷い作品ではないということは間違いありません。

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