【ネタバレ考察】舞台版『キャッツ』と比較してみた

【ネタバレ考察】ミュージカル版『キャッツ』と比較してみた

現在、話題騒然の『キャッツ』。海外の映画批評がこぞって大喜利を始めてしまう程大惨事となっていますが、日本では割と冷静に対応できているようです。無論、どうしてそうなったと思ってしまうような部分、全編自己紹介という原作を知らないとあまりの前衛さに耐えられないストーリー構成など困った部分が多い作品なのですが、ブンブンは割と好きです。特にラム・タム・タイガーのセクシーで陽気すぎる踊りっぷり、そして何よりもテイラー・スウィフトの圧倒的魔性の女ニャンコっぷりには惚れ惚れとしました。

これは舞台版『キャッツ』と比較したいなーと思っていたら、丁度Amazon Prime Videoにて配信されているではありませんか!ということで、今回舞台版を観てみました。そしてT・S・エリオットの原作『キャッツ – ポッサムおじさんの猫とつき合う法』とも比較し、『キャッツ』とは一体なんだったのか?についてネタバレ考察していきます。

【ネタバレ考察】『キャッツ』トム・フーパー監督はうっかり『死霊の盆踊り』を生み出してしまった

映画版は『TOMMY/トミー』的行間補強作だ!

Twitterを読むと、舞台版や原作を恐らく知らない人がこぞって「内容がない。」「自己紹介しかしていない。」と絶叫していますが、それもその筈。そもそもT・S・エリオットの原作枯らして、猫の自己紹介を言葉遊びで描いているだけの詩集なのだから。そして、それを鬼才アンドリュー・ロイド・ウェバーはそのまま舞台化してしまったのだ。ウェバーは、物語るよりも猫や犬、ネズミにゴキブリといった非人間たるものの動きをどのように身体表象していくのかに特化させた。なので、舞台版を観ると、ストーリーがよく分からないのだ。

映画版ですら、本来ジェリクル・キャットに選ばれるべき猫は、長老猫をマキャヴィティから救ったミストフェリーズだろうと思う。なんで、マキャヴィティの悪行で駆逐された果てにフラリと現れた落ち武者猫グリザベラが選ばれるのだろうか?漁夫の利過ぎないか?と思うところがあるのだが、舞台版ではミストフェリーズの功績がより一層際立つ上、マキャヴィティが出落ちだったりするので彼女が選ばれる理由を見つけるのが困難になってくるのだ。そして、全編歌進行なのもあり、結局舞台上で行われている高揚感に満足するものの、ストーリを振り返ると虚無を感じる。とにかく物語を歌詞だけで理解するのは困難だ。

恐らく、トム・フーパーは今回初脚本を執る上で、『TOMMY/トミー』のような作品を目指したのではないだろうか?THE WHOのロックオペラ『TOMMY/トミー』は、トラウマで聴覚・視覚を失った少年がピンボールの伝道師になる物語だが、歌詞だけでその全貌を把握することは困難だ。映画版はその難解さを助けるガイドブックになっている。トム・フーパーは結局、一つの物語に落とし込むことに成功はしているが、やはり舞台版が持つ物語の弱さを払拭することはできなかったと言えよう。

原作を知っていると驚愕!ラストは原作通り。舞台も同様だ。

Twitterでラストがヤバすぎると話題になっている。グリザベラがジェリクル・キャットとして天に召された後、ジュディ・デンチ演じる長老猫オールドデュトロノミーが第四の壁を破って、猫の接し方について説教を始めるのだ。でも、これは原作詩集においても終盤に位置されている話なのだ。アンドリュー・ロイド・ウェバーは中身のない《いかがでしたかブログ》さながら、ラストに「いかがでしたか」と猫の生き様を振り返り締めくくるのです。

スキンブルシャンクスジャンクスとミストフェリーズ部分における映画版の罪深さ

映画版は、酷い酷いと言われているが、舞台版が持つ一発勝負の特性から離れた媒体である映画を通しているため、身体表象面で長けていたりする。ラム・タム・タガーのセクシーなパリピ具合や、ボンバルリーナの魅惑の動きはもちろん、ヴィクトリアの慎重にかつ艶かしくバレエ的挙動をとる様は惹き込まれるところがある。しかしながら、舞台版で最大の魅せ場と言えようスキンブルシャンクスとミストフェリーズの部分が致命的に映画版は上手く描けていなかった。そして、どちらも舞台から映画に翻訳する限界をついた部分と言えよう。
まずスキンブルシャンクスについて。鉄道猫スキンブルシャンクスの軽妙な音楽は、段々と舞台のボルテージを上げていき、舞台の端々から取り出されるオブジェクトによって巨大機関車が生み出される。この0から1を生み出す過程と曲の高揚感が劇場をも熱く盛り上げていくのです。映画版では、このギミックは使えないので、スキンブルシャンクスにタップダンス要素を追加させ、線路を行進させる策が練られているのだが、このタップの動きと音が合っていないように見えてしまう。そして、線路を歩いていくと、開けた場所へ出ていくのだが、コテコテのCG背景による変化が施されているのでなんだか興醒めしてしまう。この感覚は、2000年代初頭の、なんでもCGに頼ろうとするあまりに作り物感が、それもポンコツハリボテに見えてしまうことによるガッカリさに近い。今の映画は、割とセットやロケで撮影を行い、CGはポイントポイントで使用するのだが、本作はガッツリCGに頼ってしまっているので、舞台の持つ臨場感に勝てないものがありました。

同様に、映画と相性が悪いのは手品。編集可能な媒体である映画の中で手品をすることは余程の技量がない限り興醒めを呼んでしまう。舞台版では、盛り上がりどころにミストフェリーズが手品で、誘拐されたオールドデュトロノミーを救うという場面がある。彼が手をかざすと次々と火花が飛び散り、猫が出現する。シルクハットからは虹色のベールが颯爽と駆け抜けていき、赤いマントを使ってオールドデュトロノミーを復活させる鮮やかさは、目の前で生身の人間がやっていることによる緊迫感あってこその面白さがある。

映画版は、ただでさえ不利な描写なのに、オールドデュトロノミーが勝手に復活したような魅せ方をするもんだから、ミストフェリーズが無茶振りに失敗して恥をかいているいるようにしか見えないのだ。舞台版以上に、くどく「Oh! Well I never was there ever a cat so clever as magical mister Mistoffelees」と復唱し、観客を魔法がかかる一瞬に巻き込もうとしているだけに、オールドデュトロノミー復活の奇跡を強調しないと!と思ってしまいました。

結局舞台版と映画版の違いはなんだったのか?

今回、映画版、舞台版を観比べてみてかなりの温度差を感じました。舞台版は、儀式に観客を強制参加させる、人間と人間が直接対峙することにより生じる契約関係に依存したものでした。儀式なので、物語の粗にツッコミを入れさせない。ツッコミを入れたくなる気になる前に、空間の魔力で観客を没入させる演出がされていた。

一方、映画版は物語ることを重要視した。自己紹介しかしていない原作及び舞台版へ最大のリスペクトを払いながらも、それぞれの行間を埋めていく。そして、映画が持つ視点を移動できる特性、一番良い演技を繋ぎ合わせることができる特性を利用し、舞台版以上に滑らかで美しい身体表象を観客に叩きつけた。ただ、『ザ・フライ』においてA地点からB地点に移動しようとしたら蝿が転送装置に紛れ込んでしまいモンスターに化けてしまうように、本作もなんらかのバグが混ざり込んで、ガンビーキャットがゴキブリを捕食したり、まるで薬物中毒者の幻覚再現映像のように隅で蠢くネズミ人間といった怪物が生み出されてしまった。

ただ、原作、舞台版、映画版は相互に影響を及ぼし合い、全てを触れていくうちに全部に愛着が湧くようになりました。原作は、言葉遊びの原石を楽しむことができる。舞台版は、音楽と儀式的動きにより洗脳されていく面白さがある。映画版は、不気味の谷に留まろうとする異様な空間で微かに見えたりする面白いショットに興奮したりします。

海外の批評家も如何にバズるかしか考えていないような評価だらけとなてしまいチョッピリ度が過ぎているなと思う。やっぱり、なんだかんだ言って問題多いけれども『キャッツ』は魅力的な作品だと言えよう。いつか劇団四季かブロードウェイで観てみたいなと思いました。

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