【ネタバレ考察】『さよならテレビ』東海テレビですら守りに入る演出からみる《テレビの闇》の正体

さよならテレビ(2019)

監督:圡方宏史

評価:50点

『ヤクザと憲法』、戸塚ヨットスクールに迫った『平成ジレンマ』とDVDも配信もしない過激なドキュメンタリーで密かにカルト的人気を博している東海テレビが、満を期して自社を撮る意欲作。東海テレビドキュメンタリーにとって集大成といえる本作は、メッカことポレポレ東中野を賑わせ満席続出となっていた。2011年、ショッピング番組で、「怪しいお米 セシウムさん、怪しいお米 セシウムさん、汚染されたお米 セシウムさん」というテロップを流し大炎上したこと黒歴史を持っている東海テレビ。ここ6年間、鋭いドキュメンタリー映画で評判を取り戻しつつある東海テレビが自社にカメラを向けることは他の放送局以上に勇気がいるところ。投げたブーメランが自分に返ってくるのだから。そして実際に観てみると、思いの外厄介な作品であり、駄作である一方傑作でもある簡単に白黒つけられない代物でした。本記事では、作品の細かいディティールまで掘り下げて考察していくネタバレ記事なので、未見の方は是非ポレポレ東中野で観賞してからブンブン評をお楽しみください。

『さよならテレビ』あらすじ


ヤクザの現実を追った「ヤクザと憲法」の監督とプロデューサーによる、現在のテレビの現場で何が起こっているのかを探ったドキュメンタリー。さまざまな社会問題を取り上げたドキュメンタリー作品を世に送り出している東海テレビによる劇場公開ドキュメンタリーの第12弾。潤沢な広告収入を背景に、情報や娯楽を提供し続けた民間放送。しかし、テレビがお茶の間の主役だった時代は過去のものとなり、テレビを持たない若者も珍しくなくなってしまった。マスメディアの頂点に君臨していたテレビが「マスゴミ」とまで揶揄されるようになったのは、市民社会が成熟したのか、それともテレビというメディア自体が凋落したのか。テレビの現場で何が起きているのかを探るため、自社の報道部にカメラを入れ、現場の生の姿を追っていく。2018年9月に東海テレビ開局60周年記念番組として東海地方限定で放送されたドキュメンタリー番組に40分以上のシーンを追加した。
映画.comより引用

自己に向く善悪の彼岸程の醜態はない

東海テレビ報道部にカメラが向けられ、マイクが仕込まれる。監督の圡方宏史が企画内容を説明すると、恰幅の良い仲間が「他局は撮らないの?」とキツイ声で言う。そこには、自分たちの厳しい仕事を撮られることへの嫌悪が滲み出ている。そしてそれはすぐさま爆発し、監督と撮影班は呼び出しを受ける。そしてもう一度正式な場で、企画の説明がされるのだが、あまりに抽象的で芯のない説明に「合意なき撮影」というドキュメンタリーにおける倫理的正論を突きつけられてしまう。結局のところ、例の恰幅の良い男は画面から映らなくなる。

『平成ジレンマ』において、残酷な死にまでフォーカスを当てるあの勢いはどこへいったのだろうか?確かに監督は違うが、圡方宏史だって『ヤクザと憲法』でヤクザ社会の奥までグイグイ食い込んでいったではないか!信念を、哲学を持って被写体に向かい合っていたではないか。それがいざ、自社にベクトルが向いた時に、全くもって意志の強さを感じない。抽象的な理想を語りあいながら、やんわりと撮っていくのだ。

そして、撮られることに嫌気を魅せる仲間からは「カメラのあるこの場は現実なの?」、「そんな程度のメッセージか」と煽られ、監督が撮りたいであろうショットは全然撮れず避けられてしまうのだ。皮肉にも、それはポンコツ新入り派遣社員の渡邊と重なる。カメラは、中盤から撮れ高が見込めそう且つ、拒絶しない渡邊に向かう。彼は入社初日の挨拶から、噛み噛みグダグダで仕事できなさそうに見える。そして実際に仕事が始まると、ロケ地では人々に逃げられ、食レポは当たり障りのないつまらないコメントしかできない。家は大荒れで、アイドルの握手会では業界人であることを厭らしい形でアピールし、承認欲求を満たそうとする。人名のルビのミスを怒られようものなら、レビューでそれを通過させた上司も共犯にしようとする。救いようのないポンコツっぷりを魅せていく彼に力を入れていくのだ。東海テレビが学校の講演で報道の役割として

1.事件・事故、政治・災害を知らせる
2.困っている人(弱者)を助ける
3.権力を監視する

の3つを挙げている。そして映画は権力を監視する存在としての東海テレビを描こうとしているのだが、撮影に対する横槍がそもそもそれを阻害する。事件や事故を知らせる役割を捉えようとするものの、是非ネタ(スポンサー等のお願いで広告的に作られた報道)ばかり扱ってしまう。そんな撮影班がたどり着くのは、困っている人を助けることだ。その矛先は渡邊に向いており、ラストにクビとなり金をセビってきた彼に万札を与えるところが本作の苦悩を象徴的に表している。

善悪の彼岸に立つ者の醜態がひたすらに描かれているのだ。

監督はインタビュー記事で下記のように語っています。

土方 批判に関しては本当にいろんな理由がありますけど、「“テレビの闇”を本当に暴いているのか?」と言う方もいらっしゃいます。番組の最後でメインの登場人物の一人である澤村慎太郎記者が「テレビの闇はもっと深いんじゃないですか?」と言うシーンがあるんです。

佐々木 その「テレビの闇」という言葉。私自身はかなり引っ掛かるんですが……。

土方 そうですね、僕も。

佐々木 そもそも、言われるような“闇”があるのかと。テレビの闇って何?(笑)。

土方 1つは「無いものを出せ」と言われている気がします。澤村さんが「もっと闇があるんじゃないですか?」と言って、おそらく見ている方も「そうだ、そうだ!」となって、「どうしてお前らは闇を暴かなかったのか?」という怒りが込み上げてくるのかもしれません。でも、少なくとも僕らが取材している中では一部の人が想像しているような“テレビの闇”というものは……。

佐々木 ……ない(笑)。
日経X TREND 「業界騒然!『さよならテレビ』制作者が語る「表現」の本質とは?」2018年4月26日より引用


観客は、もちろん私も「テレビ報道は信頼できない。だってマスゴミだもんな。」と野次馬根性で、テレビ業界で蔓延する汚仕事描写を期待する。そうでなくても、日本で珍しく『スポットライト』的な骨太社会派映画が作られたのでは?と思い観に来るだろう。そして、この映画はそれを否定して魅せることで、社会がメディアに求めるモノに対する過剰さを批判するのだ。

実際に映画の中では、他社を出し抜くための速報や独自報道ばかりに囚われて、しっかりと伝えるべきものを捉えていないのでは?と疑問を呈している。そして映画は、観客の期待した事件は提示されないが、残業時間月100時間超え当たり前の世界で過労死のニュースを作り、報道のクオリティを求めるが故に残業規制に難色示す異常な様子やポンコツ社員が辞める際の周囲の冷たい視線、派遣社員のいつクビになるか分からない恐怖などといった他の業界、組織でも起こり得るヒリヒリとした人間関係というのを痛いほどに画面に焼きつけてくる。

つまり、本作はテレビ業界の裏側を描く、モンド映画的好奇心を促す映画に見えて、実は普遍的日本のサラリーマンの肖像を捉えていると言えよう。

だからこそ、ドキュメンタリー映画としてはあまりに守りに入りすぎており、言い訳までも描くことで、批判回避しようとする厭らしさが露見するダメダメ映画でありながら、とてつもなく魅力溢れ、ひたすらに面白い作品でした。ある意味、ラストになってもこの映画を撮る意義を答えられない圡方宏史は観客に問題提起して終わる為、正解な演出と言える。また渡邊がクビになった後、沈没せず大阪のテレビ局に移転できる場面は、底辺を観たいという人間の本能的闇を裏切ることで、観客自身にその闇を気づかせる鋭い演出でもありました。しかも、渡邊が大阪に転移した場面では、相変わらずポンコツなリポートをしているのだが、一つ垢抜けた成長が観られるところも良いポイントでありました。

まさしく、善悪の淵を描き続けた東海テレビの集大成であり、長い時間かけて自分の中で消化していくタイプの猛毒映画と言えよう。

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