【ネタバレ考察】『トイ・ストーリー4』何故ウッディはフォーキーに執着するのか?

トイ・ストーリー4(2019)
Toy Story4

監督:ジョシュ・クーリー
出演:トム・ハンクス(唐沢寿明)、ティム・アレン(所ジョージ)、アニー・ポッツ(戸田恵子)、トニー・ヘイル(竜星涼)etc

評価:55点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

2010年代は『トイ・ストーリー』で始まり、『トイ・ストーリー』で終わった!

圧倒的終焉と幾重にも重なるドラマの厚みによってカイエすらひれ伏した『トイ・ストーリー3』から10年。鼠帝国は慢性的なネタ不足により、寓話の語り直しでその場をやり過ごしている世紀末に、玩具寓話も落ちてきた。あのトラウマにトラウマを重ね、地獄の淵から花咲くカタルシスを魅せたあの第三部があるにもかかわらず、「あなたは本当のトイ・ストーリーを知らない」なんて煽ってどう落とし前つけるんだ?と思っていたのですが、思いの外軽傷で済みました。ってことで、当記事ではネタバレありで、本作について、特にフォーキー周りについて語っていきます。

『トイ・ストーリー4』あらすじ


おもちゃの世界を舞台に描くピクサー・アニメーションの大ヒットシリーズ「トイ・ストーリー」の第4作。ウッディたちの新しい持ち主となった女の子ボニーは、幼稚園の工作で作ったフォーキーを家に持ち帰る。ボニーの今一番のお気に入りであるフォーキーを仲間たちに快く紹介するウッディだったが、フォークやモールでできたフォーキーは自分を「ゴミ」だと認識し、ゴミ箱に捨てられようとボニーのもとを逃げ出してしまう。フォーキーを連れ戻しに行ったウッディは、その帰り道に通りがかったアンティークショップで、かつての仲間であるボー・ピープのランプを発見する。一方、なかなか戻ってこないウッディとフォーキーを心配したバズたちも2人の捜索に乗り出すが……。ボー・ピープが「トイ・ストーリー2」以来19年ぶりに再登場を果たすほか、物語の鍵を握るフォーキー、ふわもふコンビのダッキー&バニー、かわいいアンティークのおもちゃギャビー・ギャビーなど新キャラクターたちも続々と登場。数々のピクサー作品でストーリーボードアーティストを担当し、「インサイド・ヘッド」では脚本にも参加したジョシュ・クーリーが長編初監督を務める。
映画.comより引用

何故ウッディはフォーキーに執着するのか?

まず、本作は誰かが指摘している通り『トイ・ストーリー4』ではなく、『Woody/ウッディ』と呼ぶ方が相応しい作品だ。そして、スケールは前作と比べるとかなり小物なので、番外編として扱った方が良いかもしれない。

幾多の修羅場を乗り越え、玩具としての誇りを生き甲斐にしてきた玩具 保安官ことウッディはアンディの元を離れ、「ボニーのもの」となる。しかし、ボニーはウッディと遊んではくれない。彼は尊厳を失っていく。そんな中、ウッディはボニーが生み出したゴミ同然、吹けば飛ぶような玩具刺股野郎ことフォーキーを生み出すのだ。ゴミとしての使命を果たそうとゴミ箱に向かうフォーキーにウッディが取り憑かれていくというのがプロットだ。

本作が面白いのは、フォーキーの存在だ。

従来の物語では、玩具は「作られたモノ」であった。しかし、フォーキーは「作ったモノ」なのだ。

そして、それはウッディが生み出した大人のイマジナリーフレンドとしての役割を担う。過去の栄光に取り憑かれ、移りゆく時代や人間関係(おっと、玩具関係だったね)に適応できず孤独に沈む先にある虚無ことフォーキーに自己の理想を吹き込むのだ。本作において、バズ・ライトイヤーやポテトヘッド夫妻、ハムにスリンキー・ドッグといったお馴染みのキャラクターは完全に背景だ。ウッディに歩み寄るのではなく、『セールスマンの死』さながらの老害に成り果ててしまったウッディを哀れみの目で見るだけなのだ。

ウッディは、玩具としての誇りを忘れない。2作目では、玩具としていずれ訪れるであろう「遊ばれなくなる」運命を前に提示される2つの選択肢「コレクターとして保存される」、「玩具としての人生を最後まで全うする」の中で後者を選んだ。そして、3作目ではブラック企業ともいえよう暴力的な幼稚園でのサバイバル、そしてゴミ焼却炉で感じた本当の死を乗り越えた後にボニーという新しい持ち主の下で余生を全うしようとした。

しかし、ウッディはボニーに必要とされない。頭ではわかっているのだが、「ゴミ」というワードが彼に纏わりつくのだ。

フォーキーはそんなウッディの脳内を体現している。「ボクはゴミだ」と連呼し、ゴミ箱へ急ぐ彼を引き留めようとするのは、ウッディが「ゴミ」となってしまった自分を認めたくない証拠。それ故に、彼を束縛していくのだ。そして、周りの玩具は痛い人として彼と距離を置く。本作は、フォーキーとの対話を通して内なる自分と自問自答することで玩具としての本当の終着点を決めていくという物語となっているのだ。だからこそ『Woody/ウッディ』という題が相応しいと言えよう。

そんな、ウッディは『セールスマンの死』の彼以上に厄介だ。まるでネットワークビジネスや新興宗教に嵌まり込んで、人間関係を壊してしまう人のように粘着質だ。彼は誰に対しても「for you(あなたのため)」と謳い、かつて自分が味わった愛の瞬間を分かち合おうとする。しかし、それは「for me(ウッディのため)」に過ぎない。それに気づかず、他を傷つけてしまうのだ。また、ゴミである自分のアイデンティティを払拭しようとするあまりの面倒くささがある。かつての栄光が藻屑と化してしまい、彼の周りにチラつく旧友が老いて尚キラキラと輝いている姿に羨望を抱き、自分も自分もと出しゃばることで、アンティークショップにいるヴィランたちに捕まり、仲間に怪我を負わせてしまう。しかも、仲間の傷なんか、友情でなんとかなると信じて彼らに寄り添うように見せかけて、自分にしか気持ちが向いていないのだ。

完璧に閉じた玩具寓話3話に挿入するテーマとして非常に鋭いなと感じた。しかしながら、3作目を踏まえると、非常に粗の目立つ物語となっていたのも正直なところ。最近の批評家は、読者に媚びるようにディズニーやマーベルを賞賛する傾向にあるが、流行り冷静に考えると問題が多い作品に見える。

ボー・ピープというキャラクターから見るディズニーの呪縛

ブンブンは、ディズニー/ピクサー映画とは一定の距離感を置いている。ディズニー/ピクサーのミッションである「国際平和」は非常に重要だと思っているし、常に100点以上のクオリティを全世界から求められる壮絶なプレッシャーに対して、毎回鋭い回答を用意し、従来の寓話を語り直すことで今時代の社会問題に対してメスを入れる。これは必要だと思う。と同時に、この手のポリコレに雁字搦めとなってしまい、最近のディズニー/ピクサー映画には息苦しさを感じる。それこそ『アラジン』のように、敵役を自分自身に設定して首を締めているように思えます。

さて『アナと雪の女王』あたりから力強い女性像を展開してきたのですが、遂にやってはいけないことをやってしまった。

ボー・ピープというキャラクターだ。2作目でウッディたちと別れた磁器の玩具である彼女は、あの後持ち主の手を離れて仲間たちと力強く生きていたという設定なのだが、そもそも磁器の玩具でもあるにも関わらず、衣装がガラリと変わっているのだ。貴婦人から戦士に。これがバービー人形とかリカちゃん人形という類の着せ替えタイプならわかるが、そうには見えない玩具である。もちろん布の部分を入れ替えたら本作のようなファッションに様変わりさせることはできるが、体格も何故か磁器なのに引き締まっているのだ。これには幾ら何でもやりすぎだと感じた。あまりにも女性の力強さを前面に押し出し過ぎである。

これではキャラ崩壊ですよね。

フォーキーのラストに感じる惜しさ

フォーキーは一過性の玩具だ。他の玩具と比べて儚い命であることは、あの手の玩具を作ったことのある人なら容易に想像できる。また、本作におけるフォーキーはウッディの自問自答の為のオウムである。ウッディの内なる質問に対して、そのまま返すことで、ウッディに生きるインスピレーションを与える存在である。ウッディはラストに、玩具としては最悪な結末であろう「迷子になる」という選択肢を選ぶことで、自分のアイデンティティを確立させる。その代わりにウッディをボニーの元へ帰す。よくよく考えたら、フォーキーの人生はウッディによって強制的に決められたままではないだろうか?これではまるで毒親のせいで人生を意図せずコントロールされてしまったYoutuberゆたぽんそのものではないか!

本作で、過去の栄光に取り憑かれ老害になってしまったウッディの精神的飛躍を描くのであれば、アンティークショップでのフォーキー奪還失敗というエピソードでフォーキーの死を描く必要があったと思う。フォーキーの死、去っていく仲間による本当の孤独を知ることで、人生の道を決めていくという展開の方が自然な気がします。

また、折角『トイ・ストーリー』史上初めてだろう「自分で作り出した玩具」にフォーカスが当たっていたにも関わらず、作られた玩具との対比が希薄だったのも残念でした。

犠牲的描写の空中浮遊

またウッディが終盤にボイスレコーダーの破損によって陽の目を浴びず闇を宿したヴィランであるギャビー・ギャビーに対して、自分のボイスレコーダーをあげるという自己犠牲的描写があるのだが、これがどうもとってつけたようなエピソードに見えてしまった。ボイスレコーダーを取り付けたギャビー・ギャビーは憧れの少女の前で、自分の美声を聴かせるのだが、「これいらない」と捨てられ、落ち込むという展開になっていくのだが、彼女は落ち込むだけだ。

闇による執着によって得たものが虚無だったという精神崩壊エピソードは彼女を狂気にさせるはずだし、彼女を取り巻く腹話術人形の不気味さも合間って、恐ろしい展開になっていくのではと思ったのですが、これが全くない。ただ落ち込む彼女に手を貸して、新たな持ち主を探すだけで終わるのだ。折角残酷なエピソードを用意しておいて、毒を出さないところに甘さを感じてしまった。

最後に…

確かに、本作は面白いし、一抹の不安を払拭する点地雷作ではなかった。しかし、やっぱりこの続編はいらなかったし、強いて言えば『Woody/ウッディ』という番外編として打ち出した方がよかったのではと感じた。

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