幸福なラザロ(2018)
Lazzaro felice
監督:アリーチェ・ロルヴァケル
出演:アドリアーノ・タルディオーロ、アニェーゼ・グラツィアーニ、アルバ・ロルバケル、ルカ・チコバーニetc
評価:80点
※アリーチェ・ロルヴァケルは思い入れ強すぎて甘め評価です。悪しからず。
おはようございます、チェ・ブンブンです。今日は待ちに待ったアリーチェ・ロルヴァケル監督最新作『幸福なラザロ』についてネタバレありで語っていきます。
留学先だったアンジュで行われた映画祭で、ロルヴァケル監督の『天空のからだ』と出会い、ここでもネオリアリズモなのにポップな音楽が流れ、圧倒的絶景と貧しさを対比させてくる演出に涙した。
すっかり、ペットを飼ったら名前をロルヴァケルにしようと思う程、ロルヴァケル映画のファンになり、啓蒙活動してきたブンブンの祈りが叶ったのか、今回の『幸福なラザロ』は試写で比較的高評価、bunkamuraも満席近い混雑っぷりで歓迎された。
ただ、この作品カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したのは分かるが、何故かゲテモノ映画賞シッチェス・カタロニア映画祭で審査員特別賞、カルネー・ホベン賞(18歳~30歳までの男女が審査員を務める賞)の2冠を達成しているのです。明らかに場所違いな映画の気がするのですが果たして…
『幸福なラザロ』あらすじ
カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作「夏をゆく人々」などで世界から注目されるイタリアの女性監督アリーチェ・ロルバケルが、死からよみがえったとされる聖人ラザロと同じ名を持ち、何も望まず、目立たず、シンプルに生きる、無垢な魂を抱いたひとりの青年の姿を描いたドラマ。「夏をゆく人々」に続き、2018年・第71回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、脚本賞を受賞した。20世紀後半、社会と隔絶したイタリア中部の小さな村で、純朴な青年ラザロと村人たちは領主の侯爵夫人から小作制度の廃止も知らされず、昔のままタダ働きをさせられていた。ところが夫人の息子タンクレディが起こした誘拐騒ぎを発端に、夫人の搾取の実態が村人たちに知られることとなる。これをきっかけに村人たちは外の世界へと出て行くのだが、ラザロだけは村に留まり……。
※映画.comより引用
アリーチェ・ロルヴァケル版浦島太郎
これは驚いた。昨年の秋、親友が本作を観て、「これ何言ってもネタバレになる」と言っていたのも納得。さすがのブンブンもFilmarksには本編の事あまりかけませんでした。と同時にこれはシッチェス受賞も納得の斜め上をいく映画でした。なんといっても、この作品、浦島太郎だったのだから。前半1時間の美しいロケーションと「ラザロ…ラザロ…」と囁くタッチからあれを予想しろと言われても無理な話である。
まず、『天空のからだ』、『夏をゆく人々』に引き続き圧倒的美しさでイタリアの田舎農村を映し出します。都市のシステムとは隔絶された村。そこでは地主に多額な借金を負わされた村人がそっせとタバコを作り、地主に納めている。そこにいる純粋過ぎる青年ラザロは、地主の息子タンクレディと秘密の関係になる。タンクレディは地主の横暴に嫌疑を抱き、ラザロを利用してなんとかしようとするのだ。不条理に文句ひとつ言わず生きる純朴過ぎるラザロは、そんなタンクレディに施しを与える。ラザロの秘密基地へ居候し、家族から姿をくらましたタンクレディにタバコや果物、糧を与えるラザロ。そしてタンクレディは「お前(ラザロ)が誘拐したことにして!」という願いもそのままきいてしまう。そしてラザロは自らの血を誘拐書に垂らし、地主の横暴との闘いに巻き込まれてしまうのだ。
そしてラザロは神のような存在である。自らの死、崖から転落という思わぬ死と引き換えに、地主は警察官に逮捕され、村人たちは都市部に送検される。そして、『百年の孤独』さながら村は朽ち果てていく。栄えていたあの時代を思い出すのが難しいほどの時が経ち、ラザロは崖の淵から復活を遂げるのです。まさしく浦島太郎状態になってしまったラザロは、家に侵入している盗人の手を借りつつ、タンクレディを探す旅に出る斜め上をいく展開に繋がっていく。
そして、まるで『ツイン・ピークス The Return』のダギーに憑依したクーパー捜査官のように、彼が歩くと奇跡が起きていくのだ。村の仲間との再会、タンクレディとの再会、そして驚くのは『万引き家族』さながら擬似家族を形成してホームレスに限りなく近い状態で暮らしていた人々が教会の歌も聴かせてもらえない状態に陥ると、ラザロのもたらす奇跡は、教会から歌を奪いおんぼろ小屋まで歌がついてくるというとんでもないものとなってくるのだ。
頂くことでしか生きられない人々
全編通して言えるのは、純朴過ぎるラザロが与えて与えて、自己を失っていく過程を描いた作品だ。ショットを『裁かるゞジャンヌ』に寄せていることから、本作は《与える》と《失う》の関係の映画であること。『裁かるゞジャンヌ』のジャンヌのように目に一滴の穢れもないような青年が、損得考えずに与えて与えて自分を失う。しかし、人々は与えたものをもらいっぱなしにしてしまう。でもそれは罪か?搾取される側に立ってしまった人からすると、与えられたものを返すことは難しいのでは?貧窮に貧困を重ねた人にとって、《頂く》ことでしか生きることはできないのでは?ロルヴァケル監督の貧困に対する鋭い問いかけが寓話とリアリズムの間から見えてくる。まさしく、彼女はネオ=ネオリアリスモ作家として渾身の作品を作ったといえよう。
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