【『イメージの本』公開記念】『女と男のいる舗道』自己自身に自己を与えるアンナ・カリーナ

女と男のいる舗道(1962)
VIVRE SA VIE

監督:ジャン=リュック・ゴダール(ハンス・リュカス)
出演:アンナ・カリーナ、サディ・レボ、ブリス・パラン、アンドレ・S・ラバルトetc

評価:60点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

先日のトークショーでお客さんから「ゴダール映画のブンブン評が読みたい」というリクエストがありましたので『女と男のいる舗道』を鑑賞してきました。丁度今週末ゴダール最新作『イメージの本』もやるしね。タイムリーだね。

『女と男のいる舗道』あらすじ


パリのあるカフェ。ナナ(アンナ・カリーナ)は別れた夫と疲れきった人生を語りあっている。現在の報告をしあって別れる。夢も希望もない。ナナはそんなある日、舗道で男に誘われ、体を与えてその代償を得た。そして彼女は古い女友達イヴェット(G・シュランベルゲル)に会う。彼女は街の女達に客を紹介してはピンはねする商売の女だ。ナナは完全な売春婦になった。ラウール(サディ・ルボット)というヒモも出来た。
映画.comより引用

ゴダールというのは厄介映画の巨匠だ。毎回ワケワカメな作品を作り、カイエ・デュ・シネマを始め、シネフィルと呼ばれる人がさぞかし分かった気になって有り難そうに観るのを周りが冷笑する構図が出来上がってしまっている。なので、ゴダールが好きと気軽に言うのは割とラース・フォン・トリアー好きを豪語する以上に危険だし、実際ブンブンはフランス留学中にホストファミリーにゴダール好きと言ってしまい鼻で笑われた思い出があります。

さて本作は、まだゴダールが物語ることを諦めていない時代の作品です。ゴダールはパクることでしか創作ができない自分を呪うように映画を作ってきました。スピルバーグやイーストウッドのような大衆向きで洗練された映画に嫉妬し、自分の極めて論文的なサンプリングを極めていき、遂には『イメージの本』のような登場人物0、ドキュメンタリーでも劇映画でもない、ポンピドゥーセンターにでも飾っておけな作品が爆誕しました。

『女と男のいる舗道』はまず、モンテーニュの引用から幕開けとなります。

Il faut se prêter aux autres et se donner à soi-même
他人に自己を貸すことは必要だが、自己自身に対してでしか自己を与えてはならない

フランス語の代名動詞の文化を感じさせる哲学的な言葉でいきなり観客を殴りつけてきます。フランス語における代名動詞の文化とは、通常動詞は他に向かっていくのに対し、自分にその矛先を向けることで独特な意味を持たせていくもの。

ここでは、アンナ・カリーナ演じる女性が、男に身を差し出すことに特化した映画だと主張しているように見えるのだ。

ヒロインは、男から男へと転々していく。映画デートしたり、カフェでおしゃべりしたり、娼婦となりビリヤード場でナンパしたり、他人に自己を貸し出すのだ。しかし、それはカール・テオドール・ドライヤーの『裁かるゞジャンヌ』の自己犠牲的貸し出しではない。本能的に楽しさを求めていくが故の貸し出しなのだ。

そして、それこそがファムファタールものの本質なのではと言いたげに画面は語りかけてくるのです。魔性の女というのは、悪意があるワケではない。自分第一であり、普通に生きているだけ。しかし、相手が自分の秘めたオーラに引き込まれ勝手に散っていくのだ。まあサークルクラッシャーと同じ理屈だ。

そんなようなことをゴダールは、徹底した型破りで魅せてくる。顔を映さず、背後ばかりを撮ってみせたり、マシンガンの振動に合わせたショットのこまどり演出、ラストのツイスト。

型を知っているから完璧に破る。それにより見えてくる未知なる視点に我々シネフィルは思わず歓喜してしまうのでしょう。

さて、今週末が楽しみだ♪

P.S.それにしても、カフェに市川崑監督の『野火』が飾ってあるとは、正直驚きました。違和感しかない…

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