【ネタバレなし】『洗骨』をお笑い芸人映画だとナメてはいけない5つの理由

洗骨(2018)

監督:照屋年之(『ガレッジセール』のゴリ)
出演:奥田瑛二、筒井道隆、水崎綾女、大島蓉子、鈴木Q太郎etc

評価:90点

こんにちは、チェ・ブンブンです。

先日、母親からこんなことを訊かれました。

「ブンブン、ガレッジセールのゴリが映画を撮ったセンコツって映画知っている?」

ブンブンは、最近ブログの執筆時間に追われており、限られた時間の中から傑作を引き当てるのに特化しているので、お笑い芸人映画にまで気が回りません。特に吉本興業は第二の北野武を生み出すため、10年前から映画産業に力を入れており、沖縄国際映画祭を開催したり、2015年にはカンヌ国際映画祭で『マクベス』を買い付けたりしているもののあまりうまくいっていない印象が強い。映画とコントの差が全くわかっておらず、自己満足でナルシズム全開で、内輪のノリに収斂させてしまう観るに堪え兼ねる作品を量産しているイメージが強い。映画監督としての萌芽を見せた木村祐一(まあナルシストの塊みたいな映画だったしね)はもう映画を作らなくなった。品川祐はライムスター宇多丸一派を敵に回してしまった。そんなこんなで、吉本興業映画に信頼を置いていない。

だから、この時、

「どうせ、そこらへんの芸人映画でしょ。知らんわ。」

と言ってしまった。

しかし、先日東京で公開すると、妙に評判が良い。ブンブンが参考にしているTwitterの映画アカウントも絶賛されている。こういう時は、観ず嫌いをしてはいけない。観ないと年末に後悔する傾向にある。ということで、急遽、昨日母親連れて丸の内TOEIで観てきました。

まず、ゴリさん、いや照屋年之さんに謝らないといけない。

「ゴリさん、いや照屋年之さん、ナメていてすみませんでした。土下座します。」

それだけ本作は傑作だったのです。それがただの傑作ではなく、日本の有名な映画監督ですらできないような高度な業を観客に魅せつけるタイプの作品だったのです。お笑い芸人が凄腕映画監督として認められるには、ギャグを棄てる必要があると自分は思っていた。北野武がそうだし、板尾創路や《髭男爵》の元メンバー・市井昌秀もコント・漫才の面白さを封印して映画と向き合うことで映画の才能を覚醒させていった。あの漫才師の映画『火花』ですら、笑いよりもドラマを優先して製作されていた。しかしながら、照屋年之はお笑いにもドラマにも逃げずに描き切ってしまったのです。

本作は、2月見逃すことのできない作品の一つなので、今日はネタバレなしで5つのポイントから魅力について語っていきます。

『洗骨』あらすじ

「ガレッジセール」のゴリの監督・主演で、数々の映画祭で好評を博した2016年製作の短編映画「born、bone、墓音。」を原案に、ゴリが本名の照屋年之名義で監督・脚本を手がけた長編作品。沖縄の離島・粟国島に残る風習「洗骨」をテーマに、家族の絆や祖先とのつながりをユーモアを交えて描いていく。新城家の長男・剛が母・恵美子の「洗骨」のために故郷の粟国島に帰ってきた。母がいなくなった実家にひとりで暮らす父の信綱の生活は、妻の死をきっかけに荒れ果てていた。さらに、長女の優子も名古屋から帰ってくるが、優子の変化に家族一同驚きを隠せない。久しぶりに顔を合わせ、一見バラバラになったかにも思えた新城家の人びと。数日後には亡くなった恵美子の骨を洗う大事な洗骨の儀式が迫っていた。
※映画.comより引用

注目ポイント1:映画の中の笑いと向き合っている

芸人映画は大きく分けて二通りの作り方があると感じています。一つ目は、ギャグに特化した作品。沖縄国際映画祭で上映される芸人映画の多くがこれだ。二つ目は、ギャグを封印して《映画》に集中した作品だ。前者は、芸人のネタを押し並べるだけの作品が多く、映画を沢山観ている人ほど目も当てられないような作品になる傾向があります。後者は、芸人がギャグから逃げることで、鑑賞に耐えうる作品ができる傾向にある。

『洗骨』は、なんということであろうか、ギャグから逃げることをしない。その状態で映画として鑑賞に耐え得る物語へ昇華させていくのだ。今までそれができたのは北野武ただ一人だった。それを照屋年之はやってのけたのです。彼は映画とコントの中の笑いの差を十分理解している。コントは短い時間の間で、いかに観客を盛り上げるのかに特化している言わば短距離走だ。しかし映画は、長距離走。短距離走と長距離走では使う筋肉が違うように、笑わせ方も工夫しないといけない。照屋年之は、オフビートでじっくりと《間》を引き伸ばした空間から笑いを生み出すことで、映画の中の笑いとは何かを見出した。

冒頭、お葬式の終わりが映し出される。親戚が、じゃあねと別れを告げるのだが。

何故か、「あの刺身もらえないだろうか」
「あそこにあるミカンもいただけないだろうか」

と物乞いのように、語り始める。ただ単に「欲しい」と言えばいいものを、回りくどく婉曲的に語る。その間の妙に会場は、笑いに包まれるのだ。そして、このシーンで『洗骨』はどういう映画なのかをしっかりと定義している。お葬式という哀しく重い話を、押し殺した間を使った笑いで和ませるタイプの作品であることを。

本作の目的は、沖縄に伝わる《洗骨》の文化を広く伝えることにある。ただ、スピリチュアルで重々しく描いても、観客がついてこない。そこで、《笑い》という潤滑油を塗ることで、観客の好奇心の車輪を回すことにしたのです。芸人としての特技を、物語の潤滑油として機能させる。ここまで考え抜かれた作品、今まであっただろうか?ブンブンはパッと浮かびません。

注目ポイント2:素晴らしいキャスティング

『洗骨』映画は、芸人映画としては珍しく無駄なキャストが一人もいません。芸人映画は、どうしても馴れ合いで自分の友達を無闇に出演させてしまう傾向がある。そしてその芸人の持ちネタをやらせてしまう。しかしながら『洗骨』は、しっかりと役者を起用し、この映画に必要不可欠な存在にまでキャラクターの深掘りをおこなっている。奥田瑛二のダメダメお父さんっぷり、それを筒井道隆演じるしっかり兄貴と、水崎綾女演じる妊婦の対立が取り巻く。特に水崎綾女の起用は、非常に考え抜かれている。河瀨直美の『光』で魅せた可愛いけれども気が強くキツイ性格を本作でもアクセントとして演出させているのです。また、小さな商店のおばちゃんコンビの掛け合いも非常に魅力的である。

そして何よりも、ハイキングウォーキングの鈴木Q太郎の扱いが素晴らしい。胡散臭く、まるで麻原彰晃のような風貌を持つ彼のキャラクターをただ狂言回しとして使うのではなく、観客が抱く「洗骨って何?」、「どこからが死者の世界?」などといった疑問を彼に言わせるのです。観客は洗骨行事に巻き込まれた鈴木Q太郎に誘われるように、観客は沖縄の伝統を理解することができます。しかも、鈴木Q太郎のギャグは1つ足りともスベることはなかった。しっかりと彼にも《間》を大切にさせ、まるで居合抜きの達人のように、笑いの刹那な臨界点を斬らせるのだ。なので、会場は映画が進めば進むほどドッカンドッカン爆笑の渦に包まれていました。オフビートな笑いの映画なのに、映画自体はシリアスなのに。

注目ポイント3:景色に頼らず《沖縄》を語る高等技術の発明

実は、この映画の《間》を重要視したオフビートな作劇は、単なる映画の中における笑いの扱いに止まらず、他の監督ができない表現レベルにまで昇華させていました。というのも、沖縄的シーンに頼らず沖縄を語るために《間》が大切に使われていたのです。通常、沖縄映画は美しい海とスピリチュアルなシーンで沖縄を語ろうとする。ナインティナイン岡村隆史主演映画の『てぃだかんかん〜海とサンゴと小さな奇跡〜』から、『ナビィの恋』、『ウンタマギルー』といったアート作品に到るまで、基本的に沖縄を描く型として絶景×音楽×褐色の伝統的な家を映している。しかし、照屋年之はなるべくそういった型に囚われずして沖縄を語ろうとしていたのだ。

彼は、《間》を使うことで沖縄を表現した。沖縄に流れる時間を《間》で表現したのだ。東京や大阪といった大都会は、常に人々が忙しなく動く。芸人映画だけでなく、一般的なコメディ作品もとにかく間髪入れずにギャグギャグギャグのスパークリングを観客に浴びせる。それに対して、沖縄で流れる時間というのは物凄くゆったりしているんだと彼は映像で語る。沖縄出身という血に従い、沖縄で流れる時間を映像で表現した。そこに流れるのは、都会人が滅多に感じない空気感。その違和感でもって、これは沖縄の物語であるのだと理解することができるのです。

芸人監督はもちろん、映画監督を生業にしている巨匠、鬼才ですらできない演出を照屋年之は軽くやってのけてしまった。これはトンデモナイ事件だ。

注目ポイント4:しっかり洗骨儀式を魅せる誠実さ

本作は洗骨文化を扱った作品。一度、死体を風化させた後、再び発掘し、骨を洗うという現代人にとってはあまりにショッキングな文化だ。実際に劇中で、「男でも酒を呑みながらでないとやってられない人もいるんだよ。」というセリフがあるぐらい、キツイ伝統となっている。しかしながら、映画は決して洗骨儀式から逃げることはしない。ドロドロの骸骨を観客に魅せ、それが洗われて綺麗になっていく様子をしっかりと魅せていくのだ。自身の短編映画『born、bone、墓音。』のある種リメイクとして本作を位置付け、再び洗骨文化と向かい合っただけあって、誠実な作りとなっています。

注目ポイント5:完璧な着地点

そして最後に、本作は着地点が素晴らしい。日本映画の多くがやってしまう、クライマックス後のダラダラとしたやりとり。折角、テンションが上がる大団円を観たのに、その後10~20分近くかけて、主人公のその後を描いていくことでドンドンと興ざめしていく。面白くないのに、何故か日本映画は割とこれをやってしまう悪しき伝統だ。これが一切ないのだ。生と死、結婚と離婚、伝統によってバラバラになった家族が一つになり絆を深めあう。その絶頂でこの映画はしっかりと終わってくれます。しかも、非常に映画として画になる構図をラストショットに持ってきているのだ。これではっきりとブンブンは確信しました。照屋年之は芸人監督として巨匠になれると。下手すれば板尾創路や市井昌秀を越える名監督になれるのではと。

おわりに

本作は、正直母親に言われなきゃ観ていなかっただろうし、Twitterで絶賛評を目撃しなければ観にいっていなかった。しかし、実際に観ると、非常にレベルの高い映画でした。今度は、ブンブンが宣伝する番だと思い、今回5,000字近くかけて『洗骨』の魅力について語っていきました。この作品を観て、映画監督としての照屋年之に強く惹かれ、彼の過去作『born、bone、墓音。』や『南の島のフリムン』、『選ばれた男』を観たくなりました。

『洗骨』は東京都内だと丸の内TOEI、シネマート新宿、T・ジョイPRINCE品川、イオンシネマむさし村山の4館それも比較的ニッチな劇場でしか上映されていない。

実際に今回、ブンブンは初めて丸の内TOEI地下にある2番スクリーンに入る程のマイナー映画館でしか上映されていないのですが、この記事を読んで、少しでも興味を抱いたら観ることオススメします。見逃すと年末ぐらいにきっと後悔することとなるでしょう。

そして本作を観た貴方は、もはや彼のことを《ゴリ》と気安く呼べなくなることでしょう。照屋年之の次回作に期待しかありません。

まさしく、

A STAR IS BORNであり、A STAR IS BONEな作品でした。

ブロトピ:映画ブログ更新
ブロトピ:映画ブログの更新をブロトピしましょう!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です