わたしは、幸福(フェリシテ)
Félicité(2017)
監督:アラン・ゴミス
出演:ベロ・チェンダ・ベヤ、
パピ・ムパカ、ガエタン・クラウディアetc
評価:80点
ベルリン国際映画祭審査員グランプリ(銀熊賞)受賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート候補9本に選ばれているセネガル映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』を観てきた。アフリカ映画はアカデミー賞にノミネートされていてもあまり日本に入ってくることがない。それこそセネガル映画は私が記憶している限り10年前の『母たちの村』以来の全国公開ではないだろうか。今年は、アフリカ映画を攻めており、それこそセネガル映画と言えばセンベーヌ・ウスマンの洗礼を受けている。それだけに期待して観た。果たして…
『わたしは、幸福』あらすじ
コンゴの首都キンシャサのバーで歌手をしているフェリシテ。彼女に舞い込んできたのは、息子が交通事故になったという情報。息子は手術が必要で大金が必要。フェリシテは金策に励むが…センベーヌ・ウスマンの血を継ぐ者
予告編やあらすじを読むと、陳腐な貧困物語に見えるかもしれない。酒場で歌手をしている女フェリシテ。息子が交通事故に遭い手術する必要が出てきて、必死に資金繰りをする。まあ普通の話だ。しかしながら本作を観ていくと、トリッキーな演出の数々に舌鼓をうち、唸らせられる作品となっている。
まず、アラン・ゴミス監督は同じくセネガル映画監督のセンベーヌ・ウスマンの血を継いだ作品作りをしている。一見明るく陽気に見える音楽は、貧困で苦しむセネガル人コンゴ人(不思議なのはセネガル映画なのに舞台がコンゴ民主共和国の首都キンシャサ)の慟哭となっており、観る者の心に刺さるものとなっている。そして、ねっとり陰湿な人間模様が紡がれる。
』や『母たちの村
』でのセンベーヌ・ウスマンのやり方に近い。
しかし、この『わたしは、幸福(フェリシテ)』で描かれるウスマンらしさは物語前半1時間で終わってしまう。いや、物語自体1時間で終わってしまうのだ。
じゃあ、残りは何が描かれるのかというと、心の傷の修復だ。予告編でも描かれているが、フェリシテは息子の手術費用をめぐる騒動で歌を失ってしまう。観客を信じられなくなってしまうからだ(客席を映すシーンの前半、中盤の対比が素晴らしい)。
そして、歌をやめたフェリシテは現実と空想が入り混じる混沌とした世界の中で自分の傷を癒していく。これがセネガルの民族音楽、オペラ、クラシック、ロックが入り混じり、多重露光、セネガルのスラム街をドロドロに混ぜ合わせることで、苦しみを乗り越える一人の女性の感情を観客に解き放つ。これぞ!映画的表現。体感時間は長いが、この長さすら必要不可欠に感じた。
』なんかよりもずっと、心が癒えるまでの過程が描けているだろう『わたしは、幸福(フェリシテ)』。初日にも関わらずガラガラで、ぴあの出口調査すらいなかったが、観て損はない。来年ケイシー・アフレックのお化け映画『A GHOST STORY
』を観る予定の方は是非挑戦してみてください。
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