『八月の狂詩曲』記念碑と儀式が呼び起こすもの

八月の狂詩曲(1991)

監督:黒澤明
出演:村瀬幸子、井川比佐志、茅島成美、大寶智子、伊嵜充則etc

評価:70点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

もうすぐ8月なので8月らしい作品として黒澤明の『八月の狂詩曲』を観た。

『八月の狂詩曲』あらすじ

村田喜代子原作『鍋の中』を映像化した反核映画。長崎はとある片田舎。かつて原爆を体験した老婆・鉦のもとに、夏休みを過ごすために都会から4人の孫がやってきた。孫たちは田舎生活を退屈に感じながらも、長崎の街に残された戦争の傷跡や鉦が話す昔話を聞くうちに、戦争に対する考えを深めていく。やがてハワイから鉦の甥にあたるクラークがやって来て……。クラーク役にリチャード・ギアを起用し話題を呼んだ作品。

映画.comより引用

記念碑と儀式が呼び起こすもの

本作はアラン・レネ作品のように戦争における記憶を巡るものとなっている。子どもたちが写真を眺める場面から始まる。写真を通じて過去へと眼差しを向けていくのだが、原爆が落とされた当時の恐ろしさというのはあまりにも常軌を逸しており想像することができない。「怖い」といった感覚だけが心をザワツカセル。子どもたちの間には知識のレイヤーが存在し、吉岡秀隆が主に知ったかぶりのマウントを取る役割を果たす。しかし、そういった知識によるレイヤーも超常現象的なものを前に共通して「怖い」といった感情が前景化する。それは滝に蛇のようなものが表れたり、雲に巨大な眼を幻視するところで表現される。

本作が興味深いのは、痛ましき記憶の継承として記念碑と儀式の組み合わせが提示されるところにある。校庭にひしゃげたジャングルジムのようなものが記念碑として置かれている。それ自体はグロテスクなものとし、戦争の記憶を呼び覚ますものではあるが、奥から不気味に群衆が集まっていき、一斉に手入れを始める様子を子どもたちが「怖い」と評価することで、戦争の痛ましさが集合知として現出し均一なものとして共有される。その後、大勢の人々が一堂に会し祈りを捧げるところからも、文字や単なる知識が経験として昇華される様が強調されるように思える。先日観た『Resan(The Journey)』によれば、1980年代頃の日本の教育では原爆周りの歴史を語り継ぐ体制に問題があったことが示唆されている。どのように記憶を継承していくのかといった問題を黒澤明監督は持っていたように思われる。その解として記憶の場として留めておく記念碑と、そこから経験を生み出す儀式の組み合わせを提示したように思われる。