『チェルシー・ガールズ』ウォーホルが今も生きていたらYouTuberになっていただろう

チェルシー・ガールズ(1965)
CHELSEA GIRLS

監督:アンディ・ウォーホル
出演:メアリー・ウォロノフ、イーディ・セジウィックetc

評価:70点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

アンディ・ウォーホルの実験映画はYouTubeやTikTokなど誰もが動画を作って発信できる時代を先取りしたものがある。裏を返せば、1960年代のアンダーグラウンドが我々にとって身近なものになったともいえる。一般的に彼の作品は退屈で長いとされている。映画の文脈で観るとその演出手法に物語性を見出しにくく、そのような評価になってしまうのではないだろうか。ウォーホルの作品は別の次元の文脈を拝借することにより見えるものがある。

『チェルシー・ガールズ』あらすじ

Lacking a formal narrative, Warhol’s art house classic follows various residents of the Chelsea Hotel in 1966 New York City, presented in a split screen with a single audio track in conjunction with one side of screen.
訳:ウォーホルのアートハウスの古典作品であるこの作品は、正式な物語がなく、1966 年のニューヨーク市にあるチェルシー ホテルのさまざまな住人を追ったもので、分割画面で表示され、1 つの音声トラックが画面の片側と連動して流れます。

IMDbより引用

ウォーホルが今も生きていたらYouTuberになっていただろう

1966年にポール・モリッシーと共にチェルシー・ホテルの客室を使う女性たちを撮った『チェルシー・ガールズ』は、2台の映写機を用いて異なる場面を同時に投影する手法が採用されている。フィックスされたイメージと激しいクローズアップ、モノクロとカラーなどといった対応によりチェルシー・ホテルの人々を群として捉えている。一般的に映画におけるスプリットスクリーンは心理的断絶やある物語の別側面を捉えていく表象として扱われるのに対し、本作は並列化されたイメージによって全体の空気感を掴もうとしている。どちらかといえばミュージックビデオに近いような演出技法といえる。


実際、稲葉曇「私は雨」のMVと比較することで『チェルシー・ガールズ』の構造が掴めてくるような気がする。「私は雨」は自己の中にある多様な側面を「一粒では気付くことのない雨」にたとえている。そのたとえを具象へ落とし込むアプローチとしてスプリットスクリーンが用いられており、重なり合う歌愛ユキのレイヤー、様々なフレームの技巧によってに内なる世界に迫っている。

『チェルシー・ガールズ』では、恍惚としたサイケデリックなイメージと感情を滾らせる運動の横に広がる虚無的空間を並べることで「退廃とはなにか?」に迫ろうとしている。