【第25回東京フィルメックス】『地獄に落ちた者たち』リアリズムな地獄は間延びした時間にあり

地獄に落ちた者たち(2024)
The Damned

監督:ロベルト・ミネルヴィーニ
出演:Jeremiah Knupp,René W. Solomon,Cuyler Ballenger etc

評価:65点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

第25回東京フィルメックスにてロベルト・ミネルヴィーニ監督新作『地獄に落ちた者たち』を観た。通常、映画祭映画の邦題は原題直訳にするのが定石だが、何故か独自の邦題がついている。なんでだろうと思ったらルキノ・ヴィスコンティ『地獄に堕ちた勇者ども』の英語タイトルが一緒だから寄せた説が濃厚だ。しかし、表層/深層、双方で類似点が少ないように感じるため、またタイトルとは裏腹に静謐な描写が続く作品なため、これはミス邦題だといえよう。それはさておき、第25回東京フィルメックスは当たり外れが極端であり、限りなく星1に近いか星5に近いかの乱気流であったのだが、『地獄に落ちた者たち』は程よく中道をいく作品であった。

『地獄に落ちた者たち』あらすじ

1862年、北軍の志願兵部隊が北西部の辺境を偵察する任務を与えられる。彼らは、若者、年配者、神を恐れる者、神を恐れない者など、あらゆる階層の多様な集団だった。彼らの多くに共通しているのは、銃を撃った経験が殆どなく、ましてや人を殺したことなどないということだ。ただ、彼らが長い間本当に戦わなければならない敵は、退屈であり、北西部の厳しい気候だった。彼らは神の存在に疑問を抱き、善と悪の概念について議論し、高まる幻滅感を理解しようとするが……。これまで20年以上に渡ってアメリカの見過ごされてきた辺境を描き続けてきたイタリア出身の映画監督ロベルト・ミネルヴィーニが、同国の南北戦争に目を向けた最新作。アメリカという国のアイデンティティを形作ってきた信仰、夢や希望、階級、そしてコミュニティといった要素が、これまでのミネルヴィーニの作品と同様に、この時代劇でも少し形を変えて探求されている。カンヌ映画祭のある視点部門で初上映され、同部門で監督賞を受賞した。

※第25回東京フィルメックスより引用

リアリズムな地獄は間延びした時間にあり

映画とは実際に流れる時間の中から無駄をそぎ落としたものである。このことを踏まえて「リアリズムとは何か?」を考えた際に、物語の外側に対する眼差しが浮かび上がってくる。『地獄に落ちた者たち』は戦争映画でありながら銃撃戦は実質一度きりとなっており、それ以外の場面は果てしなく遠い目的地を目指しているだけとなっている。そのことからアルベール・セラ『騎士の名誉』に近い作品だと分かる。『騎士の名誉』は「ドン・キホーテ」からメインストーリーをごっそりそぎ落とした異色作であり、サンチョパンサとのグダグダした旅路が大半を占めるものとなっている。現実も同様で、地獄や人生の転換期は予兆こそ漂っているが、それに到達するまでには間延びした時間を過ごす必要がある。そして、それが訪れる時は「突然」である。

本作も牧歌的で淡々とした軍の移動が描かれているのだが、思わぬ場面で急襲を受ける。『処刑の丘』さながらのヒリついた生々しい攻防によりトラウマが観客共々植え付けられる。再び静謐が訪れるわけだが、我々はトラウマを経験している。次なる予兆は、過去のそれとは似て非なる者であり、その予兆が現実にならないよう祈る様が信仰や哲学への思索へと繋がってくるのである。

コロナ禍以降の底が抜けた地獄では、あまりにも短いスパンで「事象」が発生するため、この映画のリアリズム、かつての「現実」は「非現実」なものとなりつつある。しかしながら、それでも完全なる破滅はほとんど発生せず、間延びした地獄の中、トラウマという首輪をつけられ我々は生かされている。本質面で『地獄に落ちた者たち』と現実は共鳴しているのである。

正直、兵士の服が最後まで綺麗な点がすべてを台無しにしてしまっているのだが、これは観てよかった。