『博士の綺奏曲』不自由のリンボでは不自由と原始的をも掴もうとする

博士の綺奏曲(2021)
原題:Yo y Las Bestias
英題:Me and the Beasts

監督:ニコ・マンサーノ
出演:へスース・ヌネス、ガブリエル・アグエロエ、ステファニア・キハダ、アーヴィング・コロネルetc

評価:75点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

映画祭シーズンでなかなか今公開中の映画に対してキャッチアップができていないのだが、シアター・イメージフォーラムでベネズエラ映画をやっているらしいと仕事終わりに『博士の綺奏曲』を観てきた。本作は何年か前にベネズエラ映画祭で上映されていて気になってはいたものの逃した作品。ちょうど読んでいる「ばらばらとなりし花びらの欠片に捧ぐ」の著者・荻野洋一氏によるトークショー付きということもあり時間を作って観てきたのだ。これが想像以上に丁寧に「不自由」と「自由」の関係性について描かれた作品であった。

『博士の綺奏曲』あらすじ

経済危機により亡命者が続出した2016年当時のベネズエラを舞台に、混乱と貧困が日常を蝕んでいくなかでも音楽づくりを続ける男の姿を描いたドラマ。

研究所に勤めながら、オルタナティブ・ロックバンド「ロス・ピジャミスタス」のボーカルをしていたアンドレスは、汚職にまみれた政権が主催する音楽祭にメンバーたちが無断で参加しようとしていたことを知り、バンドからの脱退を決意。バンドを離れ、ソロ活動を開始したアンドレスの前に、「ビースト」という、顔のない謎めいた演奏者たちが現れる。アンドレスは、ビーストたちとともに孤高のアルバム制作を試みるが……。

監督は、ミュージックビデオやコマーシャルのディレクターとしてキャリアを積み、本作が長編映画デビュー作となったニコ・マンサーノ。政治汚職やハイパーインフレなどベネズエラの情勢が悪化の一途をたどっていたなか、2016年から5年の歳月をかけて本作を完成させた。作曲家としての顔ももつマンサーノ監督が音楽も担当している。

映画.comより引用

不自由のリンボでは不自由と原始的をも掴もうとする

バンドマンの男が汚職政権主催のフェスに参加しようとするメンバーに嫌気がさして脱退。メンバーを募るも見つからず、孤独にアルバム制作をする。

いたってシンプルな青春映画であり、映画は音楽制作に集中し78分という短い時間を駆け抜ける。だが、その端々にベネズエラの抑圧された空気感の気配に気づかされる。一般的に「不自由」こそが「自由」である。「自由」を与えられた人の多くは、なんでもできるが故になにができるかが分からず、結果としてなにもできない。しかし、一定のフレームを同時に与えられることでその制約から自由に発想を膨らませることができる。つまり「自由」が「不自由」であり「不自由」こそが「自由」なのだ。実際に映画制作において、このフレームは型として確立されており、荻野洋一氏は『ミツバチのささやき』を挙げていたが、ヴェラ・ヒティロヴァ『ひなぎく』もその典型であろう。『博士の綺奏曲』も「不自由」だが「自由」なむき出しの創作を通じてベネズエラの政情不安を批判しているわけだが、この「自由論」を踏み込んだ領域で語っている。

アンドレスは新しい音楽を模索している。音楽家は誰しも膨大に存在する音の中から自分だけの音を探そうとする。音楽家の宿命を体現している。彼はベネズエラにおけるブルジョワ階級であり、女から「自由な存在」であることを突き付けられる。音を自由に探せる立場にいるのだが、彼は藁にもすがる想いで既成のコードやありふれたものや自分の肉体を使ったプリミティブな音を用いようとする。裕福な彼ですら「不自由の辺獄(リンボ)」にいるのである。映画では日常に潜む「不自由」が散りばめられている。停電が起きる、強制的に休暇を取らせられる、車にへばりついたシールが剝がれない。警察に賄賂を支払わないといけない。壊れたハードディスクからデータを取り出せないなど。

モヤモヤを抱える彼、孤独な彼は内なる他者を召喚する。それは「ビースト(=獣)」である。獣なら暴力的ベクトルへと転がっていくものだが、アンドレスの生み出すビーストは共に音を探す同志として機能し、平静を保つための存在となっている。不自由の中の自由の海を彷徨う中で、居心地の悪い世界からシェルターを見つけ出そうとする悲痛の運動に満ちた異色作であった。

P.S.それにしても、荻野洋一氏が創作の時に『博士の綺奏曲』みたいな獣出てくるみたいな話をされていて、「だよね、ジョジョのスタンドみたいになるよね」と共感しまくりだった。

自分は『アマデウス』を召喚して文章書いてます。
※映画.comより画像引用