煙突の中の雀(2024)
原題:Der Spatz im Kamin
英題:The Sparrow in the Chimney
監督:ラモン・チュルヒャー
出演:マレン・エッゲルト、ブリッタ・ハンメルシュタイン、ルイーゼ・ヘイヤ―、リア・ゾーイ・ヴォス、アンドレアス・ドゥーラーetc
評価:100点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
第37回東京国際映画祭でラモン・チュルヒャー監督新作『煙突の中の雀』が上映された。ラモン・チュルヒャーはタル・ベーラの弟子であり、彼から勧められて観た『ジャンヌ・ディエルマン』の影響を強く受けている。混沌としたサザエさん的な物語を生み出し、その運動の面白さから近年注目を集めている監督である。最新作では、固定撮影中心から移動撮影を加えていると聞いておりパワーアップの予感を抱いたわけだが、想像を遥かに超える大傑作となっていた。
『煙突の中の雀』あらすじ
中年夫婦のカレンとマルクスは、子どもたちとともに田舎にあるカレンの幼少時代の家で暮らしている。豊かな自然環境に囲まれ、一見理想的に見える家族の生活は、冷淡に見えるカレンとは対照的に外交的な姉ユーレとその家族がマルクスの誕生日を祝いに訪ねてきたことから揺らぎ始める。ユーレにとって幼少時代を過ごしたこの家は、強権的だった亡き母との不快な思い出に満ちていた。そして姉妹の会話から、カレンもまた過去のトラウマと格闘していたことがわかる。やがて、家族それぞれの闇が次々と明らかになる。『ガール・アンド・スパイダー』(21)で知られるラモン・チュルヒャーの監督第3作。ロカルノ国際映画祭コンペティションで上映された。
※第37回東京国際映画祭より引用
機能的に機能不全
「住宅は住むための機械である」
とコルビュジエは名言を残したが、実際に彼の建てた住宅は漏水などの問題を抱えており機能不全だったらしい。
『煙突の中の雀』は機能的でありながら機能不全に陥った家族を捉え続けている。空間は、ほとんどの扉が開かれ家族が滞ることなく流れるように移動する。料理を作る、遊ぶといったそれぞれの家族が機能に応じた行動をする。しかし、その行動の片鱗に心が通っていないような不気味さを抱く。鶏の首を切断し放り投げる、金属を電子レンジに入れスパークさせる、アツアツの鍋に手を突っ込む。このような日常生活に潜むバグのような行動の中で、突然観客はヒッチコック『ロープ』さながらの共犯関係となってしまう。
少年が洗濯機に迷い込む猫を閉じ込めスイッチを押すのである。家族は機能的に、その空間にいるのだが、猫が入った洗濯機が回っていることにあと一歩のところで気づかない。犬がジッと眼差しを向けているだけである。あまりにも凄惨なことが起こっているにもかかわらず少年は、すました顔で家族の群れの中に溶け込む。いつ判明するのかといった宙吊りのサスペンスが、長時間持続するのである。
このように打ち解け合えるはずの、安全圏であるはずの家族。人はたくさんいるにもかかわらず信頼できない空間の中で、中年女性の抑圧された感情が静かに描かれる。彼女には、象徴的に赤を背負わせる。服の赤、血の赤、炎の赤。何か重要なことを考えている者の、人流の濁流によって一人になる時間が存在しない。通常、抑圧された者を空間的に表現する際に「外」が解決の糸口へとなるのだが、ラモン・チュルヒャー監督は安易に外へ彼女を誘導し問題解決させることはない。外にもうじゃうじゃ人がいるのである。ではどうするのか?彼女の破壊願望を虚の世界で反復させ、虚実を曖昧にさせていくことである。
ここで面白いオマージュが使われる。『キャリー』だ。
『キャリー』における怒りや悲しみを超常現象へ置換する方法を本作で採用し、機能不全な機能ごと破壊していくのである。リズミカルな音楽が鳴りながら、おぞましくもスタイリッシュに破壊がもたらされる様は圧巻のモノである。
また、今回の特徴として移動撮影が使用されているのだが、あえて機能的ではない使い方がされている。例えば、キッチンで大人をカメラが捉える。続けざまに少しカメラが下がるのだが、ほんの少ししかカメラが下がらない。この移動に何の意味があるのだろうか?機能的に動く人流をカメラはジッと捉えつつも、機能的ではない移動をカメラの方からしてしまう。まさしく《機能的機能不全》を体現するような演出といえよう。
ところで、本作は第37回東京国際映画祭のユース部門で上映されたわけだが、上映日は平日だし、中心となる話題も中年女性の悩みだし、どういう基準で本作をこの部門に入れたのかが気になる。ユース部門は元々、矢田部さんが入りきらなかった推し映画を入れていた部門と聞いたことがあるのだが、部門の名前と実態が乖離し、矢田部さんがいない状況で形骸化しているようにも思える。