ジョーカー フォリ・ア・ドゥ(2024)
Joker: Folie à Deux
監督:トッド・フィリップス
出演:ホアキン・フェニックス、レディー・ガガ、ブレンダン・グリーソンetc
評価:90点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
公開前から、批評家観客共に酷評に晒され大惨事となっている『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』。今回は、前作から雰囲気を変えてミュージカルにしたとのことだが、予告編の段階で魅力を感じないものとなっている。前作だけで十分なのに、無理やり作った感が強く燃えているのかと思った。いよいよ日本でも公開されたので観たのだが、これが大傑作だった。1作目自体にあまり思い入れがなかったことが功を奏したのかフラットに観ることができた。確かに、くどくてスペクタクルとしてスベっているように思える本作だが、「人は表層が9割」といったテーマ、あるいはラース・フォン・トリアーが得意とする他者がいるようでいない状況の内なる対話を果てしなく深淵まで掘り下げた一本であった。
※【ネタバレ考察】『ジョーカー/JOKER』世界なんか壊れてしまえばよい! その願望をピエロの涙が叶えてくれる。
『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』あらすじ
「バットマン」に悪役として登場するジョーカーの誕生秘話を描き、第76回ベネチア国際映画祭で金獅子賞、第92回アカデミー賞で主演男優賞を受賞するなど高い評価を得たサスペンスエンターテインメント「ジョーカー」の続編。トッド・フィリップス監督と主演のホアキン・フェニックスが再タッグを組み、ジョーカーが出会う謎の女リー役でレディー・ガガが新たに参加した。
理不尽な世の中で社会への反逆者、民衆の代弁者として祭り上げられたジョーカー。そんな彼の前にリーという謎めいた女性が現れる。ジョーカーの狂気はリーへ、そして群衆へと伝播し、拡散していく。孤独で心優しかった男が悪のカリスマとなって暴走し、世界を巻き込む新たな事件が起こる。
トッド・フィリップス監督のほか、脚本のスコット・シルバー、撮影のローレンス・シャー、前作でアカデミー作曲賞を受賞した音楽のヒドゥル・グドナドッティルらメインスタッフも続投。第81回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。タイトルの「フォリ・ア・ドゥ(Folie à deux)」は、フランス語で「2人狂い」という意味で、ひとりの妄想がもうひとりに感染し、2人ないし複数人で妄想を共有することがある感応精神病のこと。
気狂いピエロ2あるいは「人は表層が9割」
『ベルヴィル・ランデブー』のシルヴァン・ショメが手掛けるアニメパートから物語は始まる。自信満々にショーの会場へ向かうジョーカー、しかし影が彼を襲い、「ジョーカー」の仮面を奪い取る。ショーでは、影のジョーカーがちやほやされ、本体がみすぼらしい格好で現れると嘲笑に晒される。自殺しようにもできず絶望的な様をカートゥーンタッチで描く。
本作のテーマがここで提示されている。殺人によってマスコミに煽り立てられ、大衆の関心にさらされているアーサー。しかし、ここに問題が生じていることを徹底的に突き付ける。他者は、「ジョーカー」としてのアーサーにしか興味がなく、アーサーとして振る舞おうとするも「今日のジョークはなんだ?」「ジョーカーはキスが得意ときいたんだけれども」「今のあなたはジョーカー、アーサーどっちなの?」といったように、常に「ジョーカー」と比較されている。アーサーとジョーカーが分離された状態で扱われ、アーサーを踏み台にしてジョーカーを呼び出そうとする状況に彼は苦しんでいるのだ。
アーサーはアーサーとしての自己を見てほしい。その渇望が虚構としてのミュージカルに投影される。抑圧された状態から、力を振り絞るようにスター気取りな振る舞いをするのだが、アーサーとしてそれをやった際にカメラだけが眼差しを向けている悲しい状態となる。具体的には、独房に収監される場面。囚人たちは看守にドヤされる形で独房に押し込められる中で、ジョーカーはスターのような振る舞いで独房へ入りポーズを決めるのだが、誰もそれについてツッコまないのである。
そんな彼の前に、「ジョーカー」の番組を20回近く観たと語る囚人リーが現れる。彼女との会話の中で親密さを抱き、「本当の自分を分かってくれる存在」としてアーサーは心の拠り所にしていく。リーとアーサーとの関係性がラース・フォン・トリアーに近いものがある。ラース・フォン・トリアー映画には多くの登場人物が出てくるが、果たして対話としての他者は存在するのかと前々から疑問に思っている。例えば『メランコリア』では、結婚披露宴に対して息苦しさと破壊衝動を抱える女性が主人公なのだが、あの映画に出てくる人物は自分にしかベクトルが向いておらず、まるで他者が内なる世界に生み出した仮想的な他者のようにぼんやりとしたものとなっている。他者の不介在であれば『ハウス・ジャック・ビルト』も当てはまる。殺人鬼の自問自答が延々と繰り返され、そこには他者が存在しないのだ。
閑話休題、アーサーの場合、前提として眼差しが向けられているようで無視された存在としてのアーサーがいる。本作の巧妙なところは、本作の他者は決して彼に呼びかける際に「ジョーカー」だけではなく「アーサー」とも呼び掛けている。他者からすればアーサーのことも見ているように振る舞っているのだが、それは表層的であり、アーサーはジョーカーと同等な扱いを受けられない状況に葛藤している。そんな彼が勘違い的に、リーを理解者として立て、内なる世界にて神聖化させていくのだ。一方で、その行為自体の危険性をアーサーは理解しており、「良き理解者」としてメディアに持ち上げられることで、ジョーカー/アーサーと似た状況に陥るのではと不安を抱いている。これはミュージカル場面で、リーに射殺される虚構が紡がれることから観測できる。
このように整理した時に、映画の全体像を見渡してみると、開けてくる世界がある。それは『メランコリア』と対極のものだろう。『メランコリア』の場合、結婚式を粉砕し、絶望的な状況で世界が滅ぶ。その瞬間に快感を抱く内容であった。我々も現実世界においてクソみたいな仕事、クソみたいな世界に対して「終わってしまえ」と思うことがあるだろう。しかし、現実では引き延ばされた陰鬱な世界が続くだけで自殺することすらできない。辛さを引き摺ることとなる。『メランコリア』はそんな現実に対して映画という虚構でもって、破壊を引き起こしカタルシスを生み出す救いの物語となっていた。対して『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の場合、自分の人生を物語として捉えることの危うさを説く、虚構へ逃げさせない仕組みとなっている。アーサーは凄惨で退屈でどうしようもなく発言権すらない刑務所と裁判の往復に対してスペクタクルが起こることを期待している。だからアーサーをスペクタクル発生装置であるテレビやカメラを介して捉える場面が多い。しかし、人生におけるスペクタクル的展開はあくまで外的要因から成り立っており、アーサーが主導権を握れるわけではない。だからこそ、終盤のテロ、そしてアーサー刺殺の偶発性が重要となってくる。どちらもスペクタクルではあるが、アーサーがミュージカル世界の中で見たような煌びやかさはないのである。それが現実だ!とトッド・フィリップスは鋭利なナイフを我々に突き付けた。このジョークとしてキツい皮肉も酷評に繋がったのではないか。
それにしても、昨年の『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』に引き続き、アメリカ映画の限界やアメリカ映画の問題点をエンターテイメント映画で描くケースが出てきている気がする。アメリカ映画とは、ある人物がとあるきっかけによって社会から役割を与えられてそれを受容することで人生に活路を見出す傾向があると思っている。ヒーロー映画を始め、《何者》になることが重要で、それがアメリカ映画であるといったイメージだ。しかし、『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』では、老体のインディアナ・ジョーンズに死も役割も与えない茶番でもってそれを批判していた。『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の場合も「ジョーカー」という役割を社会から与えられた者が、「アーサー」として見られたいと渇望し、その葛藤から不器用な人間関係へと繋がってしまう様を捉えていた。《何者》かになれた者がそれで満足しているのかといった問題提起を行っている点で興味深い。
もちろん、ミュージカル映画としては安易なバークレーショットを使っていないといった細かいテクニックはあれど、翌日には歌の内容や旋律が吹き飛んでしまうような残らなさとくどさ、退屈さを抱えているのだが、個人的には映画の中で脈打つ理論に圧倒されたのであった。
※映画.comより画像引用