ナミビアの砂漠(2024)
監督:山中瑶子
出演:河合優実、金子大地、寛一郎、新谷ゆづみetc
評価:60点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
数年前に『おやすみ、また向こう岸で』を観て、山中瑶子監督はカンヌあたりに行くだろうとと思っていたら、本当に実現し国際批評家連盟賞を受賞していて驚かされた。
『ナミビアの砂漠』あらすじ
初監督作「あみこ」でベルリン国際映画祭フォーラム部門に史上最年少で招待されるなど高く評価された山中瑶子が監督・脚本を手がけ、「あんのこと」の河合優実を主演に迎えて撮りあげた青春ドラマ。現代日本の若者たちの恋愛や人生を鋭い視点で描き、2024年・第77回カンヌ国際映画祭の監督週間で国際映画批評家連盟賞を受賞した。
21歳のカナにとって将来について考えるのはあまりにも退屈で、自分が人生に何を求めているのかさえわからない。何に対しても情熱を持てず、恋愛ですらただの暇つぶしに過ぎなかった。同棲している恋人ホンダは家賃を払ったり料理を作ったりして彼女を喜ばせようとするが、カナは自信家のクリエイター、ハヤシとの関係を深めていくうちに、ホンダの存在を重荷に感じるようになる。
「猿楽町で会いましょう」「サマーフィルムにのって」の金子大地がハヤシ、「せかいのおきく」「プロミスト・ランド」の寛一郎がホンダを演じ、新谷ゆづみ、中島歩、唐田えりか、渋谷采郁が共演。
致命的なシステムエラー:メンタルクリニックに問題があります
町田駅の濁流の中から河合優実演じるカナをカメラは見つけ出す。彼女はやがてカフェへとたどり着き友人と談笑を始めるのだが、男の群れの会話がノイズとなって漂う。マルチの勧誘なのだろうか?それとも仕事の説教か?不鮮明な会話が、元クラスメイトの死というあまりに大きいトピックを覆いつくす。カナの集中力のなさは、カット、そして河合優実の決定的眼光によって捉えられる。「ノーパンしゃぶしゃぶ」の話をしはじめる男の群れの画が挿入された後、再びカナと友人のテーブルへとカメラは戻るのだが、異様にかっぴらいたカナの眼差し、相手が違和感を感じさせる前に瞬きが挟まれ、彼女の無関心がバレるかバレないかの宙づりが形成されるのである。この時点で、山中瑶子が非凡な作家であることが証明される訳だ。
と同時に『ナミビアの砂漠』では物理的にナミビアへ行くことはないと確信させられる。「ナミビア」と聞いてどこにあるか我々は即答できるだろうか?ほとんどは即答できないだろう。なぜなら、本来ナミブ砂漠というべきところを「ナミビアの砂漠」と発しているからだ。ナミビアにある砂漠と漠然した表現であり、実際にカナがスマートフォンで「ナミビアの砂漠」と思われる場所のライブ配信をアンニュイな面持ちで眺めていることからひとつの軸が浮かび上がる。それは、全く接点のない世界を我々は人間観察のように眺める。それが「映画」なんだと。この世界で映し出される、クズでどうしようもない世界。モラトリアムを極めたような世界は本当に存在するのかどうかも疑わしい程どうかしている。ただ、なんとなくある世界として受容し眼差しを向けていく。これが『ナミビアの砂漠』と観客との関係性といえる。
映画は、山中瑶子の巧みな演出によって共感レベル0、痛ましい日常に対して興味を持続させる。例えば、カナが階段から落ちる。ディゾルブでカレシの顔が浮かびあがり、病院の場面へとシフトする。中間のそぎ落としや、優しい飛びつきのカットへ暴力的な飛びつきのカットをぶつける様。宅配が届く、カナがスマートフォンを置く、遅い足取りでカメラはスマートフォンの画へにじりよるも、絶妙なタイミングでそれが回収されていく長回し。そして、何よりもベルイマン『夢の中の人生』を彷彿とさせるピンクの心象世界の妙。幾多の魅力が散りばめられており、山中瑶子が10年以内に三大映画祭のコンペティション部門へ選出されるであろう予感が確信に変わる。
しかしながら、本作には致命的な欠点があり、そのせいで心底がっかりさせられた。それはメンタルクリニックの描写である。男と険悪な関係になり、彼女はメンタルクリニックへと通う。その中で、行動と思考の乖離について言及される。「行動と思考の乖離」は本作に流れる運動原理を象徴するものであるのだが、メンタルクリニックへの場面で語らせることで説明的となってしまっている。それ以前に、直前の場面からメンタルクリニックへとカナを誘導する強い動機も衝動もないのだ。カナは自発的に本能的に動いているように見えるが、基本的に男や友人の行動に対して反射的振る舞いをしているだけである。そんな彼女が唯一自発的な行動を取ったのが「メンタルクリニックへ行く」なので、映画としては強い理由が必要となる。しかし、それがないため、単に「カナとは何か?」を他者に定義してもらおうとするも、「双極性障害」などといったラベルをもらうことができなかった描写から「何者でない」葛藤と苦しみを抽出する本作の概念説明と先述の運動原理を説明しただけとなってしまっている。
さらに中盤へ行くにしたがって、謝りながら殴るといったクズ男たちとの暴力的な関係性がメインとなっており、確かにドワイヨン『ラブバトル』のようなアクションの趣はあれども、日本のミニシアター系映画にありがちな陳腐な情景に留まってしまっており、竜頭蛇尾、尻つぼみな映画になってしまったといえよう。
ただ、先日観た『TOXIC』同様、撮影や演出に光る原石なので監督の今後に期待である。
※映画.comより画像引用