『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』本心を注ぎ込める場としての「ぬいぐるみ」

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい(2023)

監督:金子由里奈
出演:細田佳央太、駒井蓮、新谷ゆづみ、細川岳、真魚、上大迫祐希、若杉凩(若杉実森)、宮﨑優etc

評価:90点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

今、話題となっている『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を観てきた。ぬいぐるみに話しかける文化はエンジニア界隈でたまに聞く。自分の思考回路の分身としてぬいぐるみを位置づけることにより、構築したロジックの粗を見つけ出すことができる。ただ予告編を観ると、自己の分身としての「ぬいぐるみ」像以上のものが描かれていそうだと感じた。実際に観てみると、可愛らしい柔らかいタイトルに反して、シビアな人間模様が描かれていた。例えるならば『東京物語』における紀子のような人物がたくさんいて、おまあちゃんから圧をかけられる中盤の展開がずっと続くような作品であったのだ。

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』あらすじ

「おもろい以外いらんねん」「きみだからさびしい」など繊細な感性で紡がれた作品で知られる大前粟生の小説「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を映画化。

京都にある大学の「ぬいぐるみサークル」。「男らしさ」や「女らしさ」というノリが苦手な大学生の七森は、そこで出会った女子大生の麦戸と心を通わせる。そんな2人と、彼らを取り巻く人びとの姿を通して、新しい時代の優しさの意味を問いただしていく。

「町田くんの世界」以来の映画主演作となる細田佳央太が七森を演じ、七森と心を通わせる麦戸役を「いとみち」の駒井蓮が務めた。そのほか、新谷ゆづみ、細川岳、真魚、上大迫祐希、若杉凩らが共演。原作者の大前にとっては著作の初の映像化作品となり、大前とはもともと交流のあった、「21世紀の女の子」「眠る虫」の新鋭監督・金子由里奈が自身の商業デビュー作としてメガホンをとった。

映画.comより引用

本心を注ぎ込める場としての「ぬいぐるみ」

物理世界もヴァーチャル世界も「公共の場」となり、ニュースでは変えるのが困難で醜悪な差別が蔓延っている。そんな状況下でどこに本心を置くのだろうか?「ぬいぐるみ」は、諦めと限界を感じる繊細な若者に聖域を与える。本心を他者に話したところで傷つけてしまうだろう、かといってAIとの対話はその返しによって自分が傷つくかもしれない。応答しない器に、溢れそうな自分の本心を注ぎ込むことで、誰も傷つけないような世界を作ろうとする。では、ぬいぐるみとしゃべるサークルこと「ぬいサー」はなぜ存在するのだろうか。映画はその奇妙な生態系に迫る。

コミュニケーションが苦手な人たちが集まる「ぬいサー」。そこで生まれる会話の間は独特なものとなっており、まるで地雷原を歩くように、相手の反応をうかがいながら、一歩一歩、言葉のボールを投げていく。しかし、その杖を振ることすら苦痛に感じる人の集まりなので、言葉のボールを仲間内で回していく。言葉のボールがうまくキャッチできず、気まずい空気が生まれることもある。そんな生々しい空間を描いていく。ただ、映画はそれ以上に妙な空間を描写していく。「ぬいサー」では、メンバーの吐露を聞かないようにヘッドホン/イヤホンをすることが求められる。

ぬいぐるみと話す中で、とあるメンバーがボタンを落としてしまう。ただ、周囲の人は全く気づかない。音に気づかなくとも、動きで状況を察することができるにもかかわらず、ボタンを探そうと地面を這ってようやくひとりが気づくのだ。手伝ってくれたお礼を言おうとすると、すでに協力者は自分の領域に閉じこもってしまい、気づかなくなる。他者の領域に踏み込まないことを徹する中で生まれる無関心さがここで描かれているのだ。

その上で、「そんな人たちでも土足で踏み抜いてしまう状況がある」と語る。それは、恋バナをする場面である。恋の話になると、途端に「写真見せてよ」、「どんな人なの?」と軽率に他者の領域へと踏み込む。新入部員の七森(細田佳央太)にも、好奇の眼差しが向けられるのだが、彼は「恋」が分からない。恋愛に興味がないのだ。現代思想2022年9月号に掲載された論考『メタバースは「いき」か?』にて難波優輝氏が「おしゃれはむごい」論を展開していた。おしゃれに対する関心の有無にかかわらず、強制参加させられ、他者からの眼差しと評価にさらされる社会の問題点とメタバースにおけるアバター像を絡めた論考だが、それは「恋愛」に当てはめることができる。七森は、恋愛に興味がないのだが、恋愛至上主義の社会にさらされることで「恋愛に興味のない自分はおかしいのでは?」と考えるようになる。そして、白城ゆい(新谷ゆづみ)に勢いで告白してしまう。これは、本心から好きなのではなく、社会からの評価から逃れるように付き合うことを意味する。しかし、他者への加害をしないように生きてきて、社会の女性に対する差別を哀しみ、寄り添おうとする彼だが、自分の存在自体が加害になっていることに気づき、段々と精神が病んでいく。そんな彼の鏡像として、突然学校に来なくなった麦戸(駒井蓮)の存在が浮遊する。

「ぬいサー」は、あえて他者に聞かれそうな場に集まってぬいぐるみに語りかける奇妙な活動を描いている。しかし、他者との関係を拒絶し、自己の分身と対話するだけでは、麦戸のように自己崩壊を引き起こす。傷つけないようにしても、傷つけてしまう状況を受け入れ、他者との絶妙な間合いを取るしかない。そんな空間が「ぬいサー」なのであろう。七森はたくさんのぬいぐるみの眼差しを見つめながら言う。

「自分がぬいぐるみに語っているのではなく、ぬいぐるみに語らされているのかもしれない。」

本心を内に抑圧し続けることは難しく、ぬいぐるみであれ、人間であれ、誰かに吐露する状況が存在する。それこそが「語らされている」ことであり、これによる影響を受け入れながら他者が「語れる」ぬいぐるみとなることが今を生きる上で重要なんだと映画は物語っている。

よく、いろんな人から「色んなところで「新入社員とどう接したら良いか分からない」みたいなことを訊かれるのだが、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』みたいな間合いの取り方が必要なんだろうなと思う。確かに、109分かけて「他者との対話が大事だ」と言わんとしているため、ピンと来ない人はいるかもしれない。ただ、この手の質問をしてくる人は豪快にプライベートに踏み込んでしまっている気がする。本心を引き出すコミュニケーションではなく、自然と語りたくなるコミュニケーション作りが大切であり、本作はそのプロセス、葛藤を描いているので、新入部員/新入社員とのコミュニケーションに困っている人にオススメしたい作品である。

※映画.comより画像引用