【 #死ぬまでに観たい映画1001本 】『親愛なる日記』映像日記の距離感

親愛なる日記(1993)
原題:Caro diario
英題:Dear Diary

監督:ナンニ・モレッティ
出演:ナンニ・モレッティ、ジェニファー・ビールス、アレクサンダー・ロックウェル、カルロ・マッツァクラティ、レナート・カルペンティエリetc

評価:60点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

最近、サボり気味だった「死ぬまでに観たい映画1001本」フルマラソンを再開しようと思って、残リストを眺めていたらナンニ・モレッティ映画が残っていたので観ることにした。正直、ナンニ・モレッティ映画はカイエ・デュ・シネマがやけに気に入っている監督ではあるが、イマイチ面白さが分からなかったりする。そのため、ずっと後回しにしていたのだが、意を決して観てみることにした。

『親愛なる日記』あらすじ

「息子の部屋」などで知られるイタリアの巨匠ナンニ・モレッティの代表作のひとつで、1994年・第47回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞したシネマエッセイ。これまでの監督作で自身の分身ともいえる主人公“ミケーレ”を演じてきたモレッティ監督が初めて自分自身として登場し、ローマとシチリアの島々を巡る姿をユーモアたっぷりに描く。

夏のバカンスシーズンで閑散としたローマ市内や郊外をベスパで巡る「ベスパに乗って」、脚本を執筆できる場所を求めて友人と共に世界遺産ストロンボリ島のあるエオリエ諸島を船で巡る「島めぐり」、原因不明の激しいかゆみに悩むモレッティ監督が様々な医者の元を訪れる「医者めぐり」の3章で構成。「ライフ・イズ・ビューティフル」のニコラ・ピオバーニが音楽を手がけた。

映画.comより引用

映像日記の距離感

日記とはなんだろうか?自分のそのとき感じた思考の風を徒然なるままに書き留めることであろう。そして、「かつての」日記は誰かに読まれることを前提とはしていなかったのではないだろうか。思考の風を紙に書きつける、つまり記憶域を外部に移す作業ともいえる。自分の脳内にしかないものが外部化されることで他者に読まれるのかもしれない、そんなスリルもありながら日記という形態は存在していたと思う。しかし、現代において日記の形態は異なってきたと思われるブログや、VLog、SNSへの投稿がその典型だが、誰かに自分の思索の風を読んでもらう、観てもらうことが前提にある。また、中には自分の知り合いには気持ちを知られたくないが、赤の他人には吐き出したい。そんな感情が注ぎ込まれることもあるだろう。だから、今の日記は「他者」が意識され、そして自分と事象との距離感が近いと考えられる。

こうした時に、日記を紙から映像に置換した『親愛なる日記』はかつての日記の距離感がどんなものだったのかを提示していると観ることができる。ナンニ・モレッティ自らが主役としてカメラの前に出る。カメラは彼の後ろ姿を追って、日常を、例えば映画を観たとか『フラッシュダンス』が自分の思い出の映画だとかいった話を捉えていく。

日記は「自分」が主役である。パーティにいて、モブな存在だろうが、紛れもなく主人公は自分である。それを強調するように、ライブ会場に行くや、いきなりステージに上がり込んで歌い始める。また、積極的に街の人々にダル絡みをしていく。その異様な光景はフィクションに思える。しかし、日記とはそういうものである。ありのままの過去を捉えることができない。日記を書く行為には、必ず主観や個人が紡ぐ真実がある。そこにフィクションが入り込む余地がある。

その特性を、限りなく劇映画のタッチで描くことで「日記とは何か?」に迫るナンニ・モレッティの理論は興味深いものがある。

そして、これだけ聞くと頭でっかちな映画に見えるが、スクーターを捉えるカメラワーク、山のロングショットの美しさ、映像としての満足度が高いため、気楽に楽しめる映画であるのは間違いない。この距離感こそが、今の日記にないものだろうと感じた。

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※映画.comより画像引用