群盗、第七章(1996)
BRIGANDS, CHAPITRE VII
監督:オタール・イオセリアーニ
出演:アミラン・アミラナシヴィリ、ダト・ゴジベダシヴィリ、ギオ・ジンツァーゼ、ニノ・オルジョニキーゼ、ケティ・カパナーゼ、アレクシ・ジャケリ、ニコ・カルツィヴァーゼ、ニコ・タリエラシュヴィリetc
評価:90点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
家にオタール・イオセリアーニDVD-BOXがあるのだが、最初に観た『蝶採り』があまりハマらずずっと放置していた。ここ最近、ジョージア映画が再熱しているので、『群盗、第七章』を観た。歴史背景を知らないと分かりにくい作品ではあるが、それでもとてつもなく面白い作品であった。
『群盗、第七章』あらすじ
現代のパリ。とある試写室に集う男たちは席に座ったとたん、タバコを吸い始める。スクリーンに映し出されたのは、豪邸に集い、半裸で酒を飲みゲームに興じる大人たちを少女が射殺するシーンだ。場面は変わり、中世のグルジア。馬にまたがった王(アミラン・アミナラシヴィリ)は、ある日森で羊飼いの美しい娘(ニノ・オルジョニキーゼ)を見初める。王は彼女を馬に乗せ、王妃に迎えた。場面は変わり、内戦下のグルジア。あごひげの浮浪者(アミラン・アミナラシヴィリ)は、酒瓶を抱えて通りに出る。街には装甲車が行き交い、建物の屋上には市民に向かって銃を構えた女性の狙撃手がいる。場面は変わり、中世。
負の連鎖をフィルムのように繋いで
本作は『イントレランス』や『クラウド アトラス』のように異なる時代のスペクタクルを一本に凝縮した作品である。物語はパリの試写室から始まる。カード遊びに耽っている人たちを皆殺しにするショッキングなシーンが映ったと思いきや、中世に場面が転換する。かと思えば、内戦中のトビリシに映る。台詞は少なく、サイレント映画のように人間の運動で、時代を超えた暴力と悲しみの連鎖を切り替えていく。冒頭が試写室なのは、フィルムを掛け違うように別の物語を流すことを宣言している。内戦パートの動きが非常に面白い。
浮浪者(ギオ・ジンツァーゼ)は、戦争なんてどうでもいいがごとく街を歩く。角を曲がると、狙撃されるのだが、弾は外れた。すると、彼がひょっこり角から出てきて、銃弾の痕を確認するのだ。非現実的で間抜けなシーンであるが、どこか死を求めているような翳りを感じさせる。クソみたいな社会だからこそ、偶然な死を望む。だが、現実は一思いに死がもたらされない。死は突然やってくる。別の場面では、車が角を曲がる。すると大爆発が起き、焼けたタイヤが転がる。別のシーンでは、救護車を無人の車椅子が追いかけて行き、ついに倒れてしまう。
不思議な運動を通じて、意図的な暴力と偶発的な死の関係性を紡いでいるように見える。では、厭世的な映画なのか?
オタール・イオセリアーニ監督は現代パリの描写でもって「否」と語る。
寝転がる浮浪者に、パンや新聞を与える老婆を通じて、社会の中の微かな優しさを抽出するのだ。
凄惨ながらも情緒的な物語にひたすら魂揺さぶられたのであった。
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