【ネタバレ考察】『映画クレヨンしんちゃん2020』自由のために自由を奪う、だが映画にも自由はない

映画クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者(2020)

監督:京極尚彦
出演:小林由美子、ならはしみき、森川智之、こおろぎさとみ、神谷浩史、きゃりーぱみゅぱみゅ、山田裕貴、りんごちゃんetc

評価:40点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

いつもは春の風物詩、コナンと同じ頃に公開されるある種のプログラムピクチャー『クレヨンしんちゃん』。毎年、コナンやドラえもん、ポケモンとその年の興行収入ランキングを競い合っている為、大人が観ても満足できる作品に仕上がっていることが多い為、なるべく観るようにしている。今年は『ラブライブ!』や『シティーハンター』、『KING OF PRISM』の製作に携わってきた京極尚彦が『そこのみにて光輝く』、『オーバー・フェンス』の高田亮と組んで製作しており力の入った作品であることが伺える。また、Twitterでの評判も高いので観てきました。確かに、今の社会問題に寄り添った作品になっているものの、それがクレヨンしんちゃんのスラップスティックな要素を奪ってしまっているのではと感じてしまいました。ここではネタバレありで本作の問題点について語っていきます。

『映画クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』あらすじ


人気アニメ「クレヨンしんちゃん」の劇場版28作目。「ラブライブ!」「宝石の国」などの話題のアニメを送り出してきた京極尚彦が監督を務め、脚本を「婚前特急」「そこのみにて光輝く」などの実写映画を手がけてきた高田亮が担当する。地上の落書きをエネルギーに浮かぶ王国「ラクガキングダム」は、時代の流れで地上から落書きがめっきり減ったことで崩壊の危機に直面。人間たちに無理やり落書きをさせる「ウキウキカキカキ作戦」を決行し、地上への進撃を開始する。一方、ラクガキキングダムのお姫様は、描いたものが動き出すという王国の秘宝「ミラクルクレヨン」を持ち出し、決死の覚悟で地上に託す。ミラクルクレヨンを手にしたしんのすけは、実体化した落書きたちと力をあわせて平和のために立ち上がるが……。
映画.comより引用

自由のために自由を奪う、だが映画にも自由はない

昭和末期~平成初期の世界観なクレヨンしんちゃんが令和に歩み寄った。ヒロシはもはや切符を使うことがない。ICカードで改札を抜けるところに時代を感じさせる。しんちゃんと出会う少年ユウマはタブレットで情報収集をする。そして、本作は冒頭でVRを活用したICT教育として子どもたちに仮想世界でラクガキをさせる催し物が描かれている。しんちゃんの世界に今風のテクノロジーが参入しているところが興味深い。

さて、本作は前置きを軽く済ませたらいきなり本題へと突入する。天空にあるラクガキングダムが滅亡の危機にあるとのこと。子どもたちがラクガキをしなくなり、王国が滅亡するという危機を前に防衛大臣はクーデターを起こす。「ラクガキができないのは大人のせいだ。大人を捕まえて、子どもたちに自由にラクガキをさせるのだ。もし、子どもたちがラクガキをしないのであれば、強制的にラクガキをさせるのだ。」という思想のもと、ラクガキングダムから膨大な兵を春日部市に送り込む。その戦争に、巻き込まれたしんちゃんは、魔法のクレヨンで生み出した、ブリーフ、ななこお姉さん、ぶりぶりざえもんのラクガキと共に逆襲に挑む。

クレヨンしんちゃん映画の中では、リアル志向シリアスな作品であり、どこぞの社会主義国家のようなディストピアに戦慄する。《自由》のために《自由》を制限する矛盾がもたらす息苦しさは、コロナ禍の自粛生活を経験した我々にとっても嫌な親近感がつきまとう。ラクガキングダムから派遣された教育係の指揮官は満面な笑みを浮かべ、誘拐してきた子どもたちに自由にラクガキを書かせようとするのだが、強引に誘拐してきたものだから子どもたちはなかなかラクガキしてくれない。ラクガキしてくれないとなると当然ながらラクガキパワーは堪らない、なので質よりも量でエネルギーを賄おうと子どもたちを昼夜働かせ続けることにする。寝ようとする子どもがいれば、マツケンサンバが爆音で流れるお神輿に乗せられて、寝かせない。自由を勝ち取ることを目指し、自由を徹底的に制限していく拷問シーンはとてつもなく怖い。そして、そこにはどこか増税して疲弊していき負のスパイラルに落ちる日本を感じさせる部分もあり余計に辛くなっていく。

そんな地獄をしんちゃんが魔法のクレヨンで救うのだが、付和雷同な社会がしんちゃんにまで地獄の業火を味わせる。魔法のクレヨンで壁に貼り付けられた市民を助けたしんちゃんは、市民から賞賛される。しかし、ラクガキングダムが春日部市に墜落する緊急事態において彼が魔法のクレヨンを無くしまうアクシデントが発生すると、市民は簡単に手のひらを返してバッシングを始めるのです。この手のひら返しは昨今よく見かける光景であり、子どもであっても容赦しない様に血生臭いものがあります。

監督と脚本家は、大人向けのしんちゃんを作りたかったのだろう。しかし、真面目さが仇となってしまい不協和音が発生してしまった。まず、何と言ってもこの映画自体がラクガキングダム的状況に陥っているところに注目していただきたい。本作には、小学生や幼稚園児に描いてもらったラクガキが沢山登場するのだが、そのラクガキが形の整ったロボットやらヒトやら優等生的ものしか登場しないのだ。子どものラクガキといったら謎の渦巻きだったり、空間認識が確立されていないが故に生み出される抽象画、無意識が生み出した理解不能な産物が醍醐味である。そして、ラクガキングダムが求めているラクガキというのは、そういう混沌にある設定なのに、映画に登場するラクガキは、まるで大人が一生懸命童心に返って描いたような型に縛られたものなのだ。ラクガキングダムの失われた活気を表現するためにそれを存在させる演出ならまだしも、ラクガキングダムが歓喜し歌い始める場面でその味気ないラクガキを登場させるのは致命的だったといえる。本能が描かせた絵はそこになかったように感じた。同様に、しんちゃんが生み出すラクガキも、ブリーフやななこお姉さん、明太子以外は吹っ切れたものがなく大人が頑張って生み出したシュールなラクガキの域を出なかった。だったら、りんごちゃんではなく、野性爆弾のくっきー!を採用しアナーキーなラクガキを登場させた方が良かったのではないだろうか。

また、本作はリアル路線を爆走し、無情にも子どもを叩く市民というものが描かれる。窮地に追い込まれた時、人は自分の命を、せめて家族の命を守ることに専念し、他人を思いやる余裕がなくなることを描いている。それにもかかわらず、蚊帳の外にいるユウマの演説で簡単に人々は結託してしまう。もちろん、子ども映画なので人々は結託する選択肢しかないのですが、あそこまで現実的な人間を描いておきながら、その人間から一番遠い行動をさせてしまうところに興醒めしてしまいました。説教は人の心を硬く閉ざしてしまうはずなので、そこはしんちゃんの奮闘を市民が目撃し、心揺さぶられる展開に持っていった方がよかったと思う。

それでも、良かった部分がある。それはしんちゃんが生み出した《ニセななこお姉さん》描写だ。不細工という表現を使わずに、不細工を表現するしんちゃんの動きに始まり、最初は気持ち悪く感じた《ニセななこお姉さん》がしきりに「しんちゃん好きよ」と逞しく彼を助けていく描写を通じて段々と魅力的なキャラクターに豹変していく過程は今の倫理観に見事ハマり、尚且つ作劇としても自然で評価に値する部分であった。

P.S.何故か私には来年のクレヨンしんちゃんにはフワちゃんが出る未来しか見えない。臼井儀人色にデフォルメされたフワちゃんほど想像しやすい芸能人はいないだろう。

※映画.comより画像引用

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