ワンダー 君は太陽(2017)
WONDER(2017)
監督:スティーブン・チョボウスキー
出演:ジュリア・ロバーツ、
ジェイコブ・トレンブレイ、
オーウェン・ウィルソン、
マンディ・パティンキンetc
もくじ
評価:60点
公開前から気になっており、原作を原語で読むほど気合を入れて臨んだ作品。なんたってあの『ウォールフラワー』のスティーブン・チョボスキー監督が青春を切り取るのだから期待しかない。ってことで、初日にTOHOシネマズ渋谷で観てきました。
※ネタバレ記事なので鑑賞後にお読み下さい。
※原作(洋書)の感想:『ワンダー 君は太陽』原作はサブカル(スター・ウォーズネタ多め)全開だった件
『ワンダー 君は太陽』あらすじ
R・J・パラシオの同名小説の映画化。トリーチャーコリンズ症候群の少年オギーは長らく自宅学習を行なっていたが、親の決断でごく普通の学校へ通わせることとなる。最初は、同級生に避けられ、いじめられたりもしたが、段々友達が出来てくる…しかし、そんな彼に対し敵意を抱くジュリアンは執拗にいじめを繰り返してしまう…リスペクトある再現
本作は、前情報で「『スター・ウォーズ』映画だよ」と聞いていた。原作を読むと、本当に『スター・ウォーズ』だった。というよりか、サブカルの使い方が素晴らしかった。この手の障がいを描いた作品は、重くエモーショナル過ぎる傾向がある。そして何処か他人事に見える程極端に描きがちだ。しかし、原作は『スター・ウォーズ』やデヴィッド・ボウイ、クリスティーナ・アギレラなどといった要素を、心情表現として用いることで、普遍的な物語に昇華した。例えばオギーの姉ヴィアの章の頭には次のような引用がされている。
For above the world
Planet Earth is blue
And there’s nothing I can do
-David Bowie,”Space Oddity”
(p81)
デヴィッド・ボウイの歌詞から、オギーのような目立つ存在に対して、何も出来ない孤独、陰日向にいつも追いやられてしまうヴィアの孤独感を象徴させ、その理由をこの章で紐解いていく仕組みとなっている。
そして、なるべく、外見に関する言及を避け、オギーを『スター・ウォーズ』や『指輪物語』が好きなごくありふれた少年のように描く。これにより度々登場する《ordinary(普通の)》という言葉が強固なメッセージとなっていた。
しかし、これは極めて小説的手法。チョボスキー監督は、「映画」として物語ろうとした。なので、ジャンゴ・フェットとボバ・フェットの違いからオギーのナードさを説明することもない。映画として使いやすい『Space Oddity』からの引用すら棄てた。原作に忠実ながらも、表面的な再現を避けたチョボスキー監督にまず拍手だ。
チョボスキー監督、スクールカーストの移ろいを捉える
では、チョボスキー監督はこの障がいを持った少年が新天地を開拓する話をどう映画的に描いたのか?それを読み解くポイントは、《スクールカーストの移ろい》にある。
文章だけでは伝わりにくい、学校社会で微妙に移り変わるグループ。同じグループだった人が、別のグループに移った瞬間、気まずくなってしまうあの空気感を映像で捉えた。オギーという、太陽のように目立つ存在を軸に、周りの人物の心情が変化し、人間関係が変わってしまう。水と油のような関係でも、学校という空間が狭い為、無理やり溶け込もうとする歪さ。『ウォールフラワー』に引き続き、チョボスキー監督は学校イベントを上手く活用し、最大限にスクールカーストの移ろい、等身大の移ろいをフレームに収めた。
特に個人的に唸ったシーンが、ハロウィンを活かしたオギーと親友ジャックの関係。
オギーが、『スクリーム』のコスチュームで教室に入ると、親友ジャックがいじめっ子ジュリアンのグループにいて、「親に言われてオギーの面倒を看ているんだよね」と言っているところを目撃する。オギーはお面を被っているのでジャックはそのことに気づかない。オギーは親友だと思っていたジャックが偽善で自分と付き合っていたことに心を痛めて、彼を避けるようになる。ただ、次のジャック目線の章で、それは誤解だと分かる。ジャックは貧しい家で育っており、学校も奨学金で通っている程。成績はもちろん、人間関係に最新の注意を払う立場にいる。故に、八方美人になろうとしていたことが分かるのだ。そして、雪遊び等のイベントを挟み、自分の過ちに気づかせた上で、理科コンクールのシーンを持ってくる。オギーと一緒に理科コンクールを頑張ることで和解する。原作にもあったが、監督はオギーとジャックの距離感、映像の切り返しでもって、効果的に《人間関係の気まずさ》を表現していた。
残念!ボロが多すぎる作品
ただ、個人的に結構ボロが目立つ映画だった。Filmarks等では、まだ公開して間もないだけに絶賛コメントばかりなのだが、結構重大な欠陥を持っている作品である。ここで3つの観点からそのことについて語っていく。
残念ポイント1:多すぎる描写不足
1つ目は、描写不足が目立っていたことにある。オギーの姉の友人ミランダの描写が、じっくり描きたいのか、尺の都合でカットしたいのか迷いがある為、いまいち立ち位置が分かりにくいキャラクターとなってしまった。ミランダは、親友ヴィアと仲良くしていたのだが、サマーキャンプ以降、スクールカーストの上位に入ろうと渇望し、ヘアスタイルを変える。そしてチャラい人と付き合うことになる。そうなると、根暗なヴィアが鬱陶しくなる。それで突き放すのだが、無理してスクールカースト上位の生活を送っているので辛くなってくる。しかもよりによって、ヴィアとは演劇クラスが一緒。ヴィアは、彼氏とラブラブになって離れていく。理想と現実の狭間で苦しむキャラクターとしてミランダはいるのだが、これが中途半端に描かれているので、「別に彼女のキャラクターいらなくね?」と思ってしまう。彼女は、ヴィアの分身としての役割を担っていることをしっかり回想の場面で描いた方が良かった。
また、トゥシュマン先生周りの描写が省略し過ぎて、これにより、終盤の演説の胸熱さが弱くなってしまった。
では、原作のことを一旦忘れて本作を観たらどうなのだろうか?
やはり原作を読んでなくても、トゥシュマン先生はもっと活かしてほしいと思っただろう。
残念ポイント2:着地点のミス
2つ目は、ラストに致命的ミスショットがあった。それは、オギーが修了式で、優秀な生徒として表彰される場面にあった。トゥシュマン先生が、優秀生徒の発表を勿体ぶって言う際に、この物語のダイジェスト映像が映るのだが、何故かジャックばかり映されている。トゥシュマン先生のセリフは原作とほぼ同様だ。
“‘Greatness’, wrote Beecher, ‘lies not in being strong, but in the right using of strength….He is the greatest whose strength carries up the most hearts…'”
(p304 line 11-13)
これでは、表彰受ける人はジャックになってしまう。ジャックは貧しい家庭で育ち、奨学金を得ている。その彼が、親友オギーを守る為に、いじめっ子を撃退し、停学処分になった。親友を守る為に自分を犠牲にしたのだ。しかし、決してそのヒロイズムを表に出さない。トゥシュマン先生はそれを知っているはず。そして、この演説は明らかにジャックのことを語っているようにしか見えないのだ。確かに原作通りの内容なのだが、そのシーンを読んだ時、然程気にならなかった。しかし、あの回想を入れることで、オギーが表彰されることへの疑問が生まれ、本作は所詮御都合主義だな、感動ポルノだなと思ってしまう。これは致命的欠陥と言えよう。
残念ポイント3:顔キレイキレイ問題
ブンブンが一番言いたいのは3つ目にある。
それは顔キレイキレイ問題だ。オギーは、病名こそはっきりと言及されていないが、トリーチャーコリンズ症候群だ。試しにGoogle先生で調べてみるといい。グロテスクな画像に衝撃を受けることでしょう。「うぇ」と嫌悪感を示すことでしょう。
本当の顔の障がいは、倫理的、道徳的考えよりも先に生理的拒絶感が先に来る。嫌悪感を抱いてはいけない、差別はダメだと思っても、本能はそれに抗うことが出来ない。それを描けて、初めて「人は内面までよく見ないとね」と言えるわけだ。しかし、第90回アカデミー賞メイクアップ&ヘアスタイリング賞にノミネートされたとはいえ、オギーのメイクアップからは嫌悪感がない。寧ろ愛らしさを感じてしまう。
この問題点は『デッドプール』にも言えることだが、万人ウケを狙うがあまり、顔の障がい描写から逃げてしまっているのだ。『デッドプール』の場合は、他の部分でその欠点は補えているが、本作の場合は、障がいが原因となるイジメに主軸を置いている為、この《逃げ》は最大の問題だ。
この手の描写に逃げなかった作品にどんなものがあるだろうか?
やはり、これらの作品を観ると、『ワンダー 君は太陽』のメイクアップは当たり障りのないように逃げてしまっている。そしてその逃げこそが、オギーの苦難とFace to Faceで向き合っていないことに繋がってしまった。
最後に…
本作は良い作品だし、笑ったし、楽しかった。小・中学生の道徳の時間に鑑賞させたいと思うレベルの作品であるのは間違いない。しかし、結局はよくある難病お涙頂戴もの。24時間テレビのような「感動ポルノ」の域を出ない凡庸な作品止まりでした。嗚呼、無念!!
※原作(洋書)の感想:『ワンダー 君は太陽』原作はサブカル(スター・ウォーズネタ多め)全開だった件
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