ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー(2026)
The Super Mario Galaxy Movie
監督:アーロン・ホーバス、マイケル・ジェレニック
出演:クリス・プラット、アニャ・テイラー=ジョイ、チャーリー・デイ、ジャック・ブラック、キーガン=マイケル・キー、ベニー・サフディ、ドナルド・グローヴァーetc
評価:30点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
2023年の『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』を皮切りに任天堂は任天堂ユニバースを展開している。意外なことに「大乱闘スマッシュブラザーズ」を映画化する予定はない的なことをネットニュースでチラッと目にしたが、マリオの映画シリーズ観れば資本主義と最適化の流れで必然と「大乱闘スマッシュブラザーズ」は映画化される運命であろう。既に他の作品とのユニバースが形成されているからだ。さて、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は社会問題にコミットするディズニー/ピクサーと棲み分けしているイルミネーション社との相性もあり楽しく観ることができた。2Dから3Dへ、作品から作品へシームレスに切り替えていくアトラクション映画としての面白さに満ち溢れていた。しかし、今回の『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』は98分が3時間に思えるほど退屈に感じた。
『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』あらすじ
任天堂のゲーム「スーパーマリオ」シリーズの世界をアニメーション映画化し、2023年に公開されて全世界興行収入が13億ドルを超える大ヒットを記録した「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」のシリーズ第2作。
双子の配管工マリオとルイージは、キノコ王国でピーチ姫を助けながら、捕らわれた大魔王クッパの世話をしたり、みんなの困りごとを解決したりしていた。そんなある日、2人は新たな相棒となるヨッシーに出会う。そしてピーチ姫の誕生日パーティをきっかけに、クッパの息子であるクッパJr.が抱く邪悪な野望を阻止するため、宇宙を舞台にした新たな冒険の旅に出る。
マリオやルイージ、ピーチ姫、クッパ、キノピオといった前作にも登場したおなじみの面々に加え、原作ゲームシリーズからヨッシーやロゼッタ、クッパJr.といったキャラクターたちが新たに登場する。「ミニオンズ」「SING シング」シリーズなどを手がけるイルミネーションのクリス・メレダンドリと、任天堂の宮本茂が共同でプロデュース。監督のアーロン・ホーバスとマイケル・ジェレニック、脚本のマシュー・フォーゲルも続投し、キャスト陣もオリジナル版のクリス・プラット、アニヤ・テイラー=ジョイ、チャーリー・デイ、ジャック・ブラックら、吹き替え版の宮野真守、志田有彩、畠中祐、三宅健太、関智一らが引き続き担当する。
配信者なきRTAのような通常プレイの退屈さについて
前作も映画批評家の頭を悩ませる映画であったが、本作は輪にかけて悩ましい作品となっているのだ。しかし、映画自体は退屈であれども本作の構造を分析すると非常に興味深い現象であり、『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』や『超かぐや姫!』といったショート動画時代の、アテンションエコノミー時代の映画を語る上で重要な一本だといえる。
『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』の構造自体は典型的なイルミネーション作品や子ども向け映画である。子ども、特に幼児の集中力の持続時間は刹那だ。故に1分1秒無駄にすることができない。ユニバーサルのオープニングも、通常の映画に対して間の音を抜いて数秒の時短をする工夫が見られる。足早に、物語の中心となるキャラクターを並べていき、2つの群に分ける。それぞれで窮地を生み出し、合流した上で大きな問題を解決していく。あまりにも高速で進むのと、瞬間的な快楽的描写で薄味なのが誤魔化されているため、鑑賞直後の満足度は高いが、何かしらに記録しておかないとすぐに内容を忘れてしまうようなものとなっている。日本だとアンパンマンやおかあさんといっしょ三部作がシビアに映画を切り詰めているわけだが、どちらもなんだかんだ社会問題や倫理的内容に触れている。一方で本作は、イルミネーション作品故にその辺は希薄である。映画批評家がマリオの映画に困惑するのは、一般的な映画批評はフィクションというズラされた位相から社会問題がどのように見えるかとか、ショットとショットとの繋がりの論理に関心があるからで、そういった要素を限りなく薄めて過剰さだけが語りぬけていく状況。自分の専門領域外のハイコンテクストさについていけないがために頭を抱えるのだろう。だが、それはゴダール映画のハイコンテクスト過ぎるが故の分からなさと同相な気もする。
では、このような作品を批評する上でどのような観点を持つとよいのだろうか。恐らくゲームを映画にすることとは何かから向き合うべきだろう。映画はファスト人生のようなものである。長大な人生の中から必要な物語の断片を集めていく時間の芸術である。一方でゲームはインタラクティブなものである。松永伸司「ビデオゲームの美学」を踏まえると、映画や絵画における「鑑賞」とは別のところにゲームはある。ゲームはボタン入力に対してプログラムが出力する。その関係性で生まれる経験を「受容」する芸術なのである。では、ゲームを映画にするとはどういったことか?わたしはRTAに近いものだと考えている。映画は上映時間が決まっている。どんなに壮大な物語でも大体2時間くらいでひとまず決着がつく。しかし、ゲームは少し人生に近いものがあり、プレイヤーが試行錯誤しながら、時に無駄な行為をして数十時間のプレイの末にエンディングへと辿り着く。だが、ゲームを映画にすると2時間程度でまとめないといけない。延々と地味なレベル上げをしたり、特定のステージで沼るような余裕は映画にない。よって必然と、ゲーム映画の物語は最適化されたものとなってくる。かなり駆け足となるのでゲーム映画はRTAに近いのではと考えているのだ。
これを踏まえて『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』を観ると、私の中のゲーム映画=RTAといった方程式が揺らぐ。RTAはゲームをいかに早くクリアするかといった遊びであり、クリアするために超絶技巧のテクニックやグリッチ、むちゃくちゃな展開が繰り広げられ、その面白さを受容する。しかし、本作は3分程度の物語の塊を積み上げていくのだが、そのひとつひとつのディティールが丁寧故に通常プレイの挿入映像をずっと魅せられているような感覚となる。わたしは社会人になってから忙しさ故にゲームはほとんどしない一方で部下との雑談のためにVTuberの配信なので流行っているゲームをキャッチアップしている。この手の動画は配信者のプレイの腕前とトークセンス、時にはコメントによってゲームそのもの以上の面白さがある。だが、本作にはそういったものがなく、アクションもイマイチなマイケル・ベイやローランド・エメリッヒ映画のような観辛さがある。つまり「配信者なきRTAのような通常プレイの退屈さ」を有した映画と評価することができるのだ。それなら幕末志士「奴が来る」だったりRTA in Japanのスーパーマリオメーカー回を観た方が、クリアできるか否かの宙吊りのサスペンスの連続で満足度が高い。こういうような形で今後も類似作品が出てきた際に構造分析することで、2020年代のショート動画的映画群を冷静に批評できるのではないかと思っている。










