ノアの娘(2025)
Noah’s Daughter
監督:アミルレザ・ジャラライアン
出演:カティ・サレキ、エブラヒム・アジジ、アリ・モッサファetc
評価:80点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
第38回東京国際映画祭で密かに物議を醸したイラン映画『ノアの娘』を後追いで観た。東京国際映画祭のサイトにて「海辺のテントで寝泊まりするひとりの女性というシンプルな設定のもと、大きな出来事は何も起こらず、静寂が支配する美しい海辺の風景に女性の心象を託して進行する新感覚イラン映画」と紹介されているが、確かにそうとしか語れないような作品であった一方でこういう映画が定期的に表れることの重要性を再確認させられた。
『ノアの娘』あらすじ
若い女性がイラン南部の静かな島にキャンプを張り、周囲の静寂に浸っている。彼女は海辺で年配の女性と穏やかで親密な会話を交わし、過去、未来、そして指先ひとつで人間の脈を聴く静かな技術について語り合う。また、若い男性と生と死について短くも興味深い対話を交わす。やがて彼女は荷物をまとめてテヘランへと帰っていく。海辺のテントで寝泊まりするひとりの女性というシンプルな設定のもと、大きな出来事は何も起こらず、静寂が支配する美しい海辺の風景に女性の心象を託して進行する新感覚イラン映画。エンジニアの道から映画界に進んだジャラライアン監督は、南部の海岸と大都市テヘランをめぐる本作について、「沈黙、触覚、不在によって形づくられた物語」であると語っている。
※第38回東京国際映画祭サイトより引用
ナラティブ捨てよ町へ出よう
映画はファスト人生がごとく間延びした時間の中から事象を抽出しナラティブを形成するものである。しかし、インターネットの発達により、人類に与えられた間延びした時間、日常は植民地化され、「何者かになる」「目的のために行動する」ことが強要されるようになった。タイパやコスパといった概念はそれを後押しするものとして社会に蔓延し、「なにもしない」を許さないような状況となった。私自身、仕事がない日であってもブログや動画制作を行い、映画や本を読み、美術館へと足も運ぶ。一日10回行動ぐらいしているにもかかわらず「今日は何もできなかった」と思ってしまうことがある。暇を許さず、常に情報やナラティブの渦中にいないと気が済まない性格になってしまったのである。近年、そうした生き急いだ人生から逃避するようにスローシネマを求めるようになった。現実が映画を凌駕する勢いでナラティブに覆われつつある今、その外側をファスト人生ながらの編集ではあるものの提示してくれるため、私の中ではオアシスのように機能しているのだ。
本作の女性はテントを張り焚火をする。男と出会い対話をするも、ナラティブに発展しそうな予兆はすべてのらりくらりを交わし、内なる他者のような存在の女性ともただそこに揺蕩うだけの存在として配置する。「孤独」であることを徹底して描くことで豊饒な時間が生み出されるのだ。
その豊穣の時間には、自然を見つめるだけでなく、自然を前にしてもダラダラとスマホをいじってしまう状況が含まれている。一般的に、こういったアプローチの場合、テクノロジーを遠ざけると思うのだが、それによって時間を浪費することもまた良いと優しく包み込むようである。故にこの作品にはナラティブに植民地化されていない真の豊かさがあるのだ。そして、もはやそうした世界に戻れず、指を咥えて彼女の味わう時間を享受することでしか豊穣な時間を堪能できなくなってしまった悲しき獣である己に涙したのである。












