『ヴェルクマイスター・ハーモニー』静かなる群の繋がり、終焉の予兆

ヴェルクマイスター・ハーモニー(2000)
Werckmeister Harmonies

監督:タル・ベーラ
出演:ラルス・ルドルフ、ペーター・フィッツ、ハンナ・シグラ、デルジ・ヤーノシュetc

評価:85点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

ノーベル賞のシーズンですね。今年も村上春樹とトマス・ピンチョンは文学賞を受賞できないだろうなと思いつつ、では誰が獲りそうなのか気になった。すると、Xでクラスナホルカイ・ラースローの名を挙げている方がいた。聞き覚えのある名前だと思って調べたら、タル・ベーラの右腕的脚本家であり、彼の作品17本中6本を担当していたのだ。


未邦訳の文学作品を紹介する文学YouTuberムー氏が、クラスナホルカイ・ラースローの新作のひとつ「Herscht 07769」を自ら邦訳した上で語る動画「【世界文学×最前線】今、大注目!ラーズロー文学を日本で初めて紹介。 László Krasznahorkai “Herscht 07769″【文学YouTuber ムー】」を投稿していた。本動画を観たところ、タル・ベーラとの共通点を見出すことができた。ムー氏によれば、クラスナホルカイ・ラースローは長文スタイルの文体が特徴的であり、「Herscht 07769」はピリオドが一か所しか登場しないとのこと。長文の中で視点が変わったりする点は、タル・ベーラ作品における長回しに繋がるところがある。そして、興味深いことにムー氏は映画をあまり観ない方のようで、タル・ベーラ作品は一本も観ていない感じであった。故に、タル・ベーラという色眼鏡なしでクラスナホルカイ・ラースローの魅力が語られており勉強になった。と同時に、彼から「Melancholy of resistance」の映画化である『ヴェルクマイスター・ハーモニー』において化学論の件はどのように処理されているのか気になるといったコメントをいただいた。残念ながら、本作を観たのは高校時代、TSUTAYA渋谷店でVHSを借りて観た関係であまりの画の暗さにノレず、イマイチ内容を覚えていなかったので即答できなかった。そこで、今回U-NEXTで『ヴェルクマイスター・ハーモニー』を再観した。

『ヴェルクマイスター・ハーモニー』あらすじ

ハンガリーの鬼才タル・ベーラが大作「サタンタンゴ」に続いて撮りあげた長編作品で、クラスナホルカイ・ラースローの小説「抵抗の憂鬱」をモノクロ映像で映画化した幻想ドラマ。

ハンガリーの荒涼とした田舎町。天文学が趣味の郵便配達員ヤーノシュは、音楽家の老人エステルの身の周りを世話している。エステルは18世紀の音楽家ベルクマイスターを批判しているようだ。ある日、町の広場に移動サーカスと見世物である巨大クジラがこつ然と姿を現す。住民たちは「プリンス」と名乗る扇動者の声にあおられるように広場に集まり、やがて町中に破壊と暴力が充満していく。

「ラン・ローラ・ラン」のラルス・ルドルフが主演を務め、「マリア・ブラウンの結婚」などライナー・ベルナー・ファスビンダー監督作への出演で知られるハンナ・シグラが共演。2024年2月、4Kレストア版にてリバイバル公開。

映画.comより引用

静かなる群の繋がり、終焉の予兆

住民のたまり場のような空間を10分近い長回しで捉える。その過程で、郵便配達員ヤーノシュは店主に追い出されるようにして外へ出る。それ以降、映画はタル・ベーラのトレードマークである寂れた場所をトボトボと歩く運動が反復される。本作の特徴は、この反復の間に広場を介在させる点にある。広場には見世物としてコンテナに入ったクジラが置かれている。その周りを群衆の小さな輪が無数に取り囲んでいる。ヤーノシュはこの異様な空間を彷徨うのだが、群に決して溶け込むことがない。これが、「何か起こるかもしれない」予兆へと繋がる。

ムー氏の解説によれば、「Herscht 07769」も予兆がある世界の中で日常が描かれるスタイルとなっており、クラスナホルカイ・ラースローのトレードマークになっていると推察することができる。このスタイルを映像に翻訳する際、タル・ベーラは「長回し」を採用したことがわかる。映画は人生に流れる時間をダイジェストとして切り刻み編集したある種のファスト人生である。長回しは、切り刻まれない時間の中で「何か起こるかもしれない」といった予兆を観客に抱かせ、イメージに緊迫感をもたらす。人生において、想定した事象が中々発生せず、間延びした時間の流れの思わぬ場所で事象が発生するようにタル・ベーラの映画も決定的瞬間は容易に訪れない。ここで、重要なのは類似の作風であるアルベール・セラやラヴ・ディアスとは対極にいる間延びした時間表現としての長回しである点である。アルベール・セラやラヴ・ディアスはあくまで物語の外側からリアルな人生や社会を捉えようとしている。一方で、タル・ベーラは明瞭な物語の中に現実の時間の流れを持ち込もうとしている点にある。この違いを今回見出せたのは良き学びであった。

閑話休題、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』において社会が少しずつ暴力的運動へ転がりつつあるものの、その瞬間自体は遅々として訪れない状況における不安を、孤独に歩くヤーノシュ、群れに溶け込めない異物感ある彷徨いの波で表象している点にタル・ベーラの見事な映像の翻訳を見出すことができた。一方で、極めて文学的話なのだろうムー氏から質問を受けた化学論の話は恐らくカットされている。あくまで暴動までのプロセスと、それに対する心理のメタファーとしてのクジラに特化させた作りとなっており、映画として焦点を絞っていることがわかった。

さて、高校時代に気づかなかった点だが、クジラの扱いが興味深い。クジラは自然的なものだが、水のない街中に放置される人工的な扱いを受けている点が重要となって来る。要は自然/人工の重ね合わせから、個人と社会の関係性を分析しているように読み取れる。個人からしたら群衆はコントロール不能な自然現象である。一方で、暴動を行う群に所属する個人からしたら人工的な振る舞いである。その交わりの表現としてコンテナに入ったクジラを用いている点が面白い。また、鏡のように個の内面を反射するようなクジラの瞳は内なる他者との対話を象徴させているようにも思える。故に、クライマックスで破壊されたコンテナと、放置されたクジラの構造が印象に残る。暴動の後、個人の内面に残る静かな荒涼なのか、あるいは傷つきながら得た自由なのか解釈がわかれる部分であるが、その広がり含めて豊かな作品だったといえよう。
※映画.comより画像引用