『砂時計サナトリウム』夢とは時間の歪んだ流れ説

砂時計サナトリウム(2024)
Sanatorium Under the Sign of the Hourglass

監督:クエイ兄弟
出演:タデウシュ・ヤニシェフスキ、ビオレッタ・コパンスカ、アンジェイ・クアクetc

評価:100点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

クエイ兄弟19年ぶりの長編映画『砂時計サナトリウム』がシアター・イメージフォーラムにて公開された。本作はヴォイチェフ・イェジー・ハス『砂時計』と同じ原作の映画化である。クエイ兄弟作品は中学生の時に観て寝た記憶があり、厭な予感がしていたのだが杞憂であった。それどころか、2025年のベストに入れたい程に素晴らしい作品であった。

『砂時計サナトリウム』あらすじ

「ストリート・オブ・クロコダイル」などのストップモーションアニメでカルト的人気を誇り、多くのアーティストに影響を与えてきた双子の映像作家、ブラザーズ・クエイが19年ぶりに発表した長編作品。ポーランドの作家ブルーノ・シュルツの神話的かつ詩的な短編集に着想を得て、時間と記憶、幻想と現実が交錯する夢のような世界を、人形アニメーションと実写を融合させた映像で描き出す。

青年ヨゼフは死期が迫った父を見舞うため、忘れられた支線を走る幽霊のような列車に揺られてガリシア地方を訪れる。到着したサナトリウムはすでに活気を失っており、怪しげな医師ゴッタルダがその場を取り仕切っていた。ゴッタルダはヨゼフに対し、「あなたの国から見ればお父様は亡くなったが、ここではまだ死んでいません。ここでは、一定の間隔で常に時間が遅れているのです。その間隔の長さは定義できません」と告げる。やがてヨゼフは、そのサナトリウムが現実と夢の狭間に漂う世界であること、そしてそこでは時間も出来事も確かな形を持たずに存在していることを知る。

映画.comより引用

夢とは時間の歪んだ流れ説

クリストファー・ノーランプレゼンツといった表示から映画は始まり度肝を抜かれる。実は、クリストファー・ノーランはクエイ兄弟の大ファンで在り、2015年に彼がキュレーションした企画展を行っている。クエイ兄弟の制作現場を撮ったルームツアー的短編映画も作っていたのだ。その縁だろうか、冒頭に彼の刻印が表示されるのである。実際に、映画でも明らかに『TENET テネット』の影響を受けたであろう逆再生チョーク演出が挿入されていることから、クリストファー・ノーランとクエイ兄弟の仲の良さがうかがえる。

さて、本作はクエイ兄弟版『イメージの本』といった作品であり、物語の中身というよりかは構造を通じて「映画とはなにか?」を問う映像を用いた批評的作品となっている。ゴダールの『イメージの本』は最終的にインスタレーションといった形で、時間の芸術である映画を積分し、フレームに囚われた時間を解放することによって映画を受容する我々を捉えようとした。クエイ兄弟の場合、イメージがスクリーンを飛び出し三次元空間にて構成されるわけではないものの、あらゆる手法を用いてフレームの境界線を曖昧なものにしている。たとえば、横に引き伸ばされたイメージが提示される。城のようなものだが不鮮明である。そこに白い縦線が入り、イメージが圧縮されていく。すると、イメージだと思っていたものが文章であるように思える瞬間が表れる。しかし、さらに圧縮されるよ夜の城のような存在、最初に連想するイメージとは異なるものの、城は共通していたことが明らかとなるのだ。

また、覗くアクションによって提示される断片、暴力の気配を抱かせる断片が反復されて描かれるのだが、これは我々の記憶と現実に流れる時間を意識させるものだろう。現実は一回性の事象が連続して並んでいる。我々は時として、その連続する時間の中にあるトラウマ的事象を何度も再生し、心理的翳りを広げてしまう。この心理領域における反復を映画における反復の側面と重ねていくのである。

シネフィルDVDさんから直接クエイ兄弟はハス版『砂時計』は好きではないといった話を聞いていたのだが、スタイルはかなり変えてきている。ハス版では廃墟における綻びを軸として夢というのはハリボテであり、ハリボテの隙間から隙間へ遷移していく異様さを「現実」のように捉えることだと定義していた。一方で、クエイ兄弟版は時間の芸術である映画における時間の伸縮性を軸とし、我々が経験してきた時間が加工されて浮上したものだと語っている。どちらの理論も強固であり、その土台の上で目を奪う形而上世界を構築しているので素晴らしい映画だと感じた。

※映画.comより画像引用